浜の真砂(まさご)は心地よいと読むだけでは私は満足しない。
私は素足でそれを感じたいのだ。まず感覚をとおして得た知識でなければ私には知識とは無用のものなのだ。
p30
フランス近代文学者のジットは、1893年からおよそ2年以上にわたって旅行を行った。
故郷のフランスを離れ、北アフリカからヨーロッパに至る周遊を行っている。チュニスからカルタゴ、ビスクラにわたりイタリア、パリ、スイス、アルジェリアへと国々を回っていく。
その旅においてジットが経験した自然、人、経験が、書きつけられたのが、1898年に出版された『地の糧』だ。
『地の糧』のテーマは観念的な世界からの決別である。
著者のジットの自我、性、および母ジュリエットの厳格なプロテスタント教育からの解放がそこでは志向されている。例えばこのような文章から、その姿勢をうかがうことができる。
他の人々が書物を著したり、勉強をしたりしている間に、私は頭で覚えたものをすっかり忘れるために三年間旅行をして過ごした。
この頭の学問を止めようとする訓練は暇がかかるのみならずなかなか困難でもあった。
しかしそれは人々から強いられたあらゆる学問よりは私に取っては遥かに有益でありかつこれが真の教育の始まりでもあった。
p8
この記述からわかるのは、『地の糧』で行われていることとは、ジット個人の実存的な問題の解決である。しかし、そのきわめて個人的な問題が、なぜか読者の心を揺さぶる力を持っている。
なぜ、『地の糧』において語られるジットの個人的な内面は人々の胸を打つのか。
『地の糧』を読む我々はジットのような抑圧を受けてはいない。
ジットが感じていた性に対する、あるいは自我に対する憂鬱な気持ちを我々は持ちえない。
カトリック的な禁欲の姿勢を、その出自から持たざるを得なかったわけでもない。
にもかかわらず『地の糧』において描かれる解放に我々は揺さぶられる。
アフリカでジットが見た自然に対して。
そしてその自然の奔放さに仮託された、自我が解放される喜びの記述に対して。ジットが経験した個人的な体験に心地よさを感じてしまう。
それはいったい、なぜなのか。
ジットの個人的な経験が、なぜかそれを共有しえない読者にカタルシスを引き起こす。私は、『地の糧』の持つ二つの要素が、それを可能にしているのだと思う。
その二つの要素とは、語られる風景や旅情の「瞬間」、そしてその「瞬間」から抽出される常に新しさへ開かれた「自我の在り方」なのだと私は考える。
「瞬間」と「自我の在り方」。その二つの要素が語られるとき、ジットの個人的な経験は読者に共有可能なものとして昇華される。
では、ジットが『地の糧』において、ナタナエルに語る「瞬間」とは、その「瞬間」から抽出された「自我の在り方」とは何なのか?
要素①「瞬間」
ジットは三年間の旅行において自身の経験を一つの一貫した意味を持った「ストーリー」としては決して捉えなかった。
むしろジットは自身の旅の「瞬間」を捉え続けていた。ジットの記述はあくまでその場その場において起こった出来事の、短い時間間隔の中での記述である。
悪く言えば、脈略がない。『地の糧』では、ジットの心のままに書かれた散文が続いている。
例えば、こんなように、旅で見た風景を断片的に記述していくものがある。
夕べにはひとしお甘美にして、真昼にいとどかぐわしい泉。
凍る朝明けの火。海辺のそよ風。船しょうの林立する港湾。歌拍子おもしろき岸べの生暖かさ…
草原へと道を取るならば、真昼時のほてり、畑ののみもの、夜はくぼめる稲塚の褥(しとね)。
近東の国々へと路を取るならば、名残り惜しめる海上の航跡。モスウルの園ゆう。トゥグルの舞踏。エルヴェシアの牧人の裏。
p34
あるいは、ある日の夜明けを切り取って、その時見た風景と心持ちを素朴に描いた記述がある。
我々は夜明け前に早起きすることを覚えた。
御者は内庭で馬をつける。水桶の水で石畳を洗うポンプの音。物思いに沈んで眠れなかった人の酔ったような頭。見捨てねばならぬ場所。小さな部屋。
少しの間、ここに私は頭をおいた。
私は感じた、考えた。徹夜をしてしまった。ーー死にたい!どこでもかまわぬ。(もう生きられるのならいついずこいかなる場所であろうともかまわぬ)ところが生きながらえて私はここにいた。
p119
さらに、文脈が途切れて、突然思い出したかのように、気づきを叫ぶ場面もある。
いや!すべて空にある星、すべて海に潜む真珠、入海のほとりなる白鳥を、私はいまだそのすべてを数え上げはしなかった。
木の葉のささやきも、はたまた黎明のほほえみも、夏日の笑いも。
さて今となって、何を言おう?私のくちは堅く閉ざされているので、私の心臓は休息しているものとお思いですか?
p146
これらの文章はすべてジットが、自身の旅のある「瞬間」を記述したものだ。そこには物語は存在しない。
ジットは、彼の三年間の旅をきわめて微細な「瞬間」の連続としてとらえる。
旅の中で経験されたことは、次の瞬間には言葉になってジットから離れていく。『地の糧』の大部分を占める旅の記述の中からは、そのような疾走感を感じ取ることができる。
こういった記述は、ある側面からは読者を突き放した文章ともいえる。
前後の文脈に依存せず、絶え間なく展開される経験の記述は一本のストーリーを持たない。
そのため、読者は今ジットが何を話そうとしているのか、旅のどの場面の話なのか、わからなくなりためらってしまう。
このように、読者にとって、『地の糧』の記述はかなり不親切なものとなっている。『地の糧』を小説や紀行文として読もうとすると、一貫した意味を持たない文章の放埓さに読者は面喰ってしまうだろう。
なぜジットは、自身の経験を一貫したストーリーラインによって、わかりやすく提示しなかったのだろうか?なぜジットは、自身の経験の「瞬間」の記述においてのみ、自らの旅を語ろうとしたのか?
結論から言うと、私は、ジットが読者に、あるいはナタナエルに「神」を見せたかったからなのだと考える。
「神」とはなにか?どうしてジットが自らの経験の「瞬間」を見せることが、「神」を見せることにつながるのか?
それを考える前には、まずジットの「瞬間」についての思想を確認しなければならない。
ジットは『地の糧』において「瞬間」についてこのように語っている。
ナタナエル、君に瞬間について話そう。
君は瞬間の存在がどんな力を持っているかわかっているか?
朧げな死の思想は君の生涯のほんの短い瞬間をも価値あるものとしなかった。各瞬間が、いわば死の陰影をきわめた礎石から解脱していなければ、あの陸離たる光彩を放つことはあるまいということが、君には解らないのか?
p46
ジットはここで「瞬間」の持つ力に着目している。「瞬間」は「死の思想」から離れることで「陸離たる光彩」を放つとされている。
ジットは、自身が今経験しているものごとを、死へと向かう単線的な人生の一場面として捉えるのではなく、そういった一貫性のある時間間隔から取り出された一つの微細な単位の中で経験されたものとして捉えることを望んでいる。
いつか死んでしまう人生の一番として日々が経験されてしまうよりも、一回性を持った新しいものとして日々が経験されることをジットは望んでいる。
ジットはまた、「瞬間」についてこのようにも言っている。
かくて私は、孤立した喜び全体のために、各瞬間を私の生活から切り離す習慣をつけた。そこに福祉の特異性をすべて集中させるために、こうして、最も近い思い出から、もう自分の見分けがつかないくらいになった。
p48
ジットは自身の経験した「瞬間」を、自身の一貫した生活から切り離した。
それは、「最も近い思い出」さえも現在の自分とは一貫性のない状態になるほどに、細かな時間間隔の中で生きることを行った。
常に新しいものとして、物事を経験することをジットは目指した。ジットは、そうした「瞬間」を期待し、感じ取ることによって喜びを感じ取るに至った。
ジットはまた、そうした「瞬間」を感じ取ることによって得る喜びのことを、神を感じ取る喜びへと言い換えた。
自然、人々、動物、それらを見て、触れて、感じた経験は、すなわち神を感じた経験であるとジットは捉えた。
以下の引用部分では、ジットが「瞬間」を感じる喜びをいかに神を感じる喜びへと変換しているかを見て取ることができる。
君は感動でもないものを忘れもせず、今この瞬間に、生命の力強い、完き、直接的な感動を味わい得ると信じているのか?
君の思考の習慣が君を妨げる。
君は過去に生き、未来に生きている。しかも君はみずから進んでは何一つ認めようとはしない。
ミルテイル、我々は実際何物でもありはしない、人生の早取写真に写される以外ではね。過去などというものは、これから来るべきものが何一つ生れ出もしないうちに、もう死にかけているものだ。
瞬間!ミルテイルよ、瞬間が現にここにいるということはなんと力強いことか君にも今にわかるだろう。なぜなら、我々の生命の各瞬間は、本質からいって取り換えのきくものではないのだから。ときには君もそこに心をひたすらに専念せしめるがよい。
ミルテイル、この瞬間には、もう妻もなければ、子供もないということを君が望むなら、君が知っているならば、ひとり神の御前にいられたであろうに。
ところが、君は彼らを思い出す、肩に彼らを背負って歩いている、まるで一切の君の過去、恋愛、地上の気にかかることさまざまのことなどを結局失いはしないかと恐れるあまりのように。
ところが私のすべての愛は、すべての瞬間に、新しい驚嘆のために私を待っている。私は常にその愛を知ってはいるが、かつて認めたことはない。
ミルテイル、君は神がとるすべての形式に気づいていない。あまりに一つの形式を眺めすぎ、それにむきになって溺れこみ、君は自分を盲目にしてしまっている。君の固定した崇拝の心は私を悲しませる。
それがもっとも取り乱れたものであって欲しい。すべての閉ざされた扉の後ろに、神はまします。神のあらゆる形式は愛に満ち、かつ一切は神の形式なのだ。
p83
ジットは「瞬間」を感じることを求める。それは取り換えのきくものではなく、常に新しい驚嘆を連れてくる。そして、その「瞬間」において感じる喜びというのは、自然や動物や人に姿を変えた神を感じている喜びなのだ。
ジットはこういった生きることの喜びをナタナエルに、あるいは読者に伝えたかったのではないか。
そしてその喜びを伝えるための方法が、自身が経験した旅のあらゆる「瞬間」を、記述することであった。
旅の「瞬間」を一つのストーリーとして分かりやすくまとめることも、もちろんジットにはできただろう。しかしそうしてしまうと、ジットが感じた「瞬間」の喜び、神を見つけ出したときに感じた喜びをそのままに伝えることは難しくなってしまう。
『地の糧』において、一見すると脈略なく並べられている文章の断片は、しかしジットが経験した感動を伝えるためには必要不可欠な記述の仕方だった。
ジットが感じた「瞬間」の喜びを少しでも感じることができれば、読者はジットの個人的な経験の記述を、自身に近づけて快く読むことができるだろう。
※
一切のものが神のあらゆる形式であるというジットの考え方は汎神論的な考えである。これについては、成谷(1978)の記述が興味深い。
『地の糧』の汎神論的性格はこれまで多く指摘されてきたことであるが、それはむしろ一神論に対する文脈ではなく、己の中に息づいた、 幸福を感ずる心に神性を認める、という意味で捉えられるべきだろう。神よりも人間性の中に信じるものを見出すということであろう。聖書や教会で教わった「神」に、暗闇で坊往うジッドは救われることはなかった。また理論や知が救うこともなかった。あらゆる定義がその形を崩し、 形を成さず、捉えることのできないものの中にこそ彼は新たに信ずるものを見出したのだった。 それは圧倒的な自然や、絶望の中で息づく実感を肯定することによって知る「生」の姿であった。
アンドレ・ジッドの「地の糧」
要素②「自我の在り方」
今まで、『地の糧』の記述はジットが旅で経験した「瞬間」の積み重ねであること。その「瞬間」とは、物事を常に新しくとらえる経験であることを確認した。
この項では、ジットの「瞬間」を感じようとする生き方は、ジット自身の求める「自我の在り方」へと拡張されていることを見ていきたい。
ジットは外界を「瞬間」によって経験することを求める認知の仕方を、常に新しい関係性へと自己を開いていく実存的な在り方へと展開する。
ジットは自身が持っている自身のイメージや、自身が持つ社会的な紐帯を、どんどんと更新していくことを求める。
ナタナエル、君に似ているものの傍に止ってはならぬ。決して止ってはならない。ナタナエル、周囲が一度君に似通ったら、また君が周囲に同化したと気づいたら、君に取って特になるものはもう失われているのだ。
周囲を捨てなければならない。君に取って、君の家庭、君の書斎、君の過去ほど危険なものはない。一切の事物から、ただそれがもたらす教育だけを受け取り給え。そして事物から流れ出でる快楽がやがて教育を枯渇せしめるように。
p46-47
ジットはナタナエルに人間関係や知識、経験知の更新を要請する。常に新しい自己に開かれていくことを、ジットは求める。
ジットは「自分を融通無碍にし、和解的にし、あらゆる感覚に対して柔軟にし、注意深いものに」(p75)することで、「瞬間」の喜びを期待する姿勢を自らの自我の在り方とした。新規性に開かれるオープンな自我こそが、大いなる喜びを感じ取る自我となる。
そうした「自我の在り方」の持つ自由奔放としたエネルギー、あらゆる紐帯から自由になろうとする姿勢は、読んでいるものをひきつけずにはいられない。ジットの考える理想の自我の在り方が、人々を引き付ける。
ナタナエル、未来のうちに過去を再現しようと努めてはならぬ。各瞬間ごとに類いなき新しさを掴み給え。そして君の喜びをあらかじめ準備してはならない。それともその準備した場所に着くと、また別個な喜びが突然目の前に現れるものだということを知り給え。
p38
観念的な世界からの決別をテーマとする『地の糧』。ジットは幼少期から続く抑圧的な感情、実存的な問題を、旅によって解決した。
その解決策とは、自我を単線的なものではなく、常に変化しうるオープンなものへと変換し、旅の中で経験した「瞬間」を喜ぶことだった。また、ジットはその喜びを神の発見になぞらえた。
ジットが経験によってつかんだ、最も輝かしい生き方のモデル。
『地の糧』において旅の「瞬間」を積み重ねることによって記述されるその自我の在り方は、ジットの経験を完全に共有しえない読者にも届く強さを持ったものであった。
私がこの『地の糧』を読んだのは、大学3年生の終わる春休みだった。
就活と部活動に区切りがつき、大学生活の残された時間をどのように使うか悩んでいた時期だった。『地の糧』は私に前に進むエネルギーをくれた。
新しいものへと飛び込むためのエネルギーを『地の糧』は与えてくれた。大学四年生から北大の学生寮に入り、まったく経験のなかったドラムを始めた。
「自分はこういうのが向いている」という自己イメージをぶっ壊し、新しい経験を「瞬間」として捉える喜び…。
ジットがかつて経験したその喜びを、残りの大学生活で感じられたらいいなあと思っている。
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