話が面白い人になりたい。
思えば中二ぐらいからそんなふうに思っている。大学一年生のころの僕は、星野源のラジオを聞いて、改めてそう思った。
あんなに話が面白くて、相手を楽しませることができるのなら、ガッキーと結婚できるのも納得してしまう。うらやましい。
しかし僕は星野源のような「人に引かれない自然な下ネタ」を面白く話すスキルを持ち合わせていない。
では、どうしたらいいのか。
「話の面白さのベクトル、つまりfunnyではなくinterestingな面白さを追求すれば、僕の話は面白くなるのではないか」
そんなことを思ったのは、『人間の建設』という本を読んだ大学一年生の秋であった。
『人間の建設』は、二人の人間が雑談するだけの本だ。
この本はだから、普通の本である。雑談をしている人物が、小林秀雄と岡潔という人物だということを除いて。
小林秀雄(こばやしまさお)は、日本で初めて「批評」という文芸活動を行った人物で、いわば「文系の王」のような存在である。
岡潔(おかきよし)は日本で最も偉大な数学者の一人として有名な人物で、さしずめ「理系の王」のような存在である。
そんな、「文系の王」と「理系の王」の雑談は、示唆に富んだ言葉が溢れている。
小林秀雄と岡潔の雑談のテーマは、進行していくにつれて二転三転していく。なので、この本の内容を一つにまとめることはできない。
よって、気になった点をまとめることによって、この本を紹介していきたいと思う。
「だれの文章を読んでいても、その人がわかるとたとえつまらない文章でも面白くなる。」(p85)
批評家、小林秀雄の文章論。必ずしも文章を書く際に上手いレトリックや言葉遣いをする必要はない。
それよりもむしろ、その人の人柄が現れている文章を読むのが好きなのだと小林秀雄はいう。
「わかるということはわからないと思うことだと思います」(p117)
数学者、岡潔は、人間が「わかる」ということは幼少期の中で体得した「情緒」、つまり一人の人間が森羅万象と繋がっているというぬくもりのようなものをもう一度獲得することなのだと説く。
人間は、生後18ヶ月で宇宙の全てを「なんとなく理解する」。その後、もう一度理解したことを「思い出す」ことが、「わかること」だと岡潔はいう。
以前、ハイデガーか誰かが理解することを「一度覚えたことを掴み直す作業」だと定義していた。岡の考えはそれに近いと感じる。
「人為的なことをやめ、原体験に立ち返る」(p134)
成長するにつれ習得してきた人為的なもの(この文章では定義されていないが、おそらく仕事や損得の絡む人間関係とかのことだろう)をやっていると、人間は弱ってくると岡潔は言う。
それに対応する小林の意見はこうだ。
芭蕉は「不易(ふえき)」という概念を提唱した。詩人は、幼児期を「思い出すこと」で詩的言語を作り出すのだという。
記憶というものは誰でも必ず持っている。そして、記憶というのは自分の意志と関係なしに、勝手によみがえる。
例えば、実家に帰省する。故郷で小学校の通学路を通れば、自分の意志とは関係なしに、小学生だった時の記憶が勝手に蘇っていく。
記憶は人を勝手に幼児期の懐かしさに連れて行き、人々に感動を与える。それはやっぱり、おそらく自分の意志とは違うところで。
そういうふうに記憶に連れ去られ、原体験に立ち返ることが芭蕉の考える「不易」なのだと小林秀雄は語る。
僕は、ここがこの本の中で一番好きだ。創造的な活動をする中で大切なのは、過去の記憶に立ちかえることなのだと、強く思った。
「脳科学的に見た時に、創造するというプロセスは思い出すことに似ている」(p178)
創作活動と、記憶の関係性。それはこの本の解説を書いている茂木健一郎も指摘している。
曰く、「思い出す」という行為と「創造」という行為はどちらも前頭葉の回路が中心になって行われるそうだ。
前頭葉を使って、過去に経験したことを「思い出す」、そしてその思い出した記憶を自らの経験と繋げることで「創造」する。
プラトンは、『パイドロス』の中でそれを「魂の出産」だと述べた。
ノスタルジー、記憶を「思い出す」ことは自分の意志とは関係なしに起こることであり、その意志とは離れた行為が「創造」を生み出している。
そう考えると、人間がなぜノスタルジー好きなのかもわかってくる。
ノスタルジーは人間を「創造」によって作り替える原動力になるとも言えるからだ。
この本のタイトルは『人間の建設』。
人間が新しく「建設」されるために、過去のノスタルジーを適度に取りいれることが求められているのだと思いました。
過去のノスタルジーが新しい創造を連れてくること。
そのことこそ、過去の記憶と結びついて離れることのできない、普通に生きているだけでも創造せずにはいられない、人間という存在の特質だと思うのです。
余談
この記事の冒頭で「funnyではなくinterestingな面白さを追求すれば僕の話は面白くなるのではないか」と僕は書いた。
しかし、『人間の建築』を読んでも、僕の話は残念ながら面白くならなかった。
大学一年生の僕は岡潔や小林秀雄のように博覧強記の教養を持ち合わせておらず、話が面白い人というよりただの雑学披歴おじさんになってしまった。
居酒屋バイトを始めたことをきっかけにそのことに気づいた大学一年生の冬、僕は『人間の建築』を逆恨みした。都合の良い人間である。
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