「真剣に生きる」ことについて、紙面に叩きつけられた情熱がそこにある『自分の中に毒を持て』

自分自身の生きるスジは誰にも渡してはならないんだ。この気持ちを貫くべきだと思う。

p28

先週、僕は東京にある岡本太郎記念館に行った。実際に岡本太郎の作品に触れることで、僕は彼の思想と作品を比較していろいろと考えた。

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それをきっかけに、岡本太郎の思想をもう一度知りたいと思った。そして読んだのが『自分の中に毒を持て』という本だ。

『自分の中に毒を持て』は、岡本太郎が「真剣に生きること」について語った本である。「上手に生きること」についてではない。「真剣に生きること」についてだ。岡本はだから、成功する方法も、世渡り上手になる方法も教えてくれない。

むしろ、自分を解体し、安定した道から逸れて、瞬間瞬間に無条件的に賭ける方法を、岡本太郎は教えてくれる。

この本は、読んでいてアブない。「真剣に生きること」を追求しようとすると、多くの人は今の安定した道から外れてしまうからだ。僕個人この本を読んでいると、まじめに大学の講義に出ることが、アルバイトに行くことが、課題をやることが、本当にアホらしくなってくる。それくらい、岡本太郎の言葉は魅力的であり、危険なモノなのである。

『自分の中に毒を持て』のタイトルにある「毒」とは一体何なのか、本文中では明示されない。しかし、本書を通読すれば、劇薬である「毒」の実態が、そしてそれを生きることにどう生かすかが、何となくわかってくる。

真剣に生きるには、「無条件的に挑戦すること」が必要だ

『自分の中に毒を持て』はこのように始まる。

人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自由さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。

人生に挑み、ほんとうに生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。それには心身とも無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでくる。

p11

岡本太郎は、真剣に生きるためには「無条件にチャレンジをすること」が必要だと述べている。「過去の経験や知識を捨て、新しいことに挑戦することが必要なのだ」と。

「無条件に」というのが重要だ。何かの為に行うのではいけない。何かの為に行動を起こすことに慣れ続けると、人生は空虚になる。「俺は生きた!」(p28)と言えるような生き方をするには、無条件に、無目的的に挑戦をするべきだと岡本は主張する。

そしてその挑戦は、若者だからこそやるべきなんだと岡本は続ける。

どこにも属していないで、自由に自分の道を選択できる若者だからこそ決意すべきなんだ

p28

ここまでで、真剣に生きるためには「瞬間瞬間に無条件に挑戦をすること」が必要なのだということがわかった。

やりたいことに迷ったら、「気が向く方」「ダメな方」へ向かおう

「無条件に挑戦する」といっても、具体的にはどうしたらいいんだろう?岡本は以下のように熱く行動を促す。

誰もが何かしなきゃいけないと思っている。ところが、その何かとは、いったい何なのか、よく考えてみると、てんでわからない。(中略)

どうしたらいいのか。人に相談したって仕様がない。まず、どんなことでもいいからちょっとでも情熱を感じること、惹かれそうなことを無条件にやってみるしかない。情熱から生きがいがわき起こってくるんだ。情熱というものは、何をなんて条件つきで出てくるもんじゃない、無条件なんだ。

p40

岡本は、挑戦をするきっかけとして、とりあえず「気が向く方」へ向かって、やってみるしかないのだという。

「経験を積むため」とか「将来の為」とかの条件にモチベーションの根拠を置くのではなく、無条件的にやりたいことをやればいいのだと岡本は述べる。

また、それに付け加えて、岡本は「ダメな方」へ向かうのも良いことだという。

一度でいいから、ぼくと同じにダメになる方、マイナスになる方の道を選ぼう、と決意してみるといい。そうすれば、必ず自分自身がワアーッともりあがってくるに違いない。それが生きるパッションなんだ。

p62

ダメな方へ向かうと、人は生きる情熱を取り戻すのだと岡本は言う。苦境に立たされてこそ、人間は生きる情熱を取り戻す。

まとめると、岡本はやりたいことに迷ったら「気が向く方へ」「ダメな方へ」向かうことを提案している。それが、いのちを奮い立たせるコツなのだと岡本は考えている。

岡本太郎の二つの許し

ここまでで、真剣に生きるためには無条件的に挑戦することが重要であり、その挑戦は自分本位で「気が向く方へ」「ダメな方へ」向かうことによって生まれるのだということが分かった。

『自分の中に毒を持て』において、岡本太郎は、そんな挑戦する人、真剣に生きようとする人に向けて二つの許しを与えている。

それは「続かなくてもいい」という許しと、「未熟でもいい」という許しである。

許し①「続かなくてもいい」

何かをはじめてもつづかないんじゃないか、三日坊主に終わってしまうんじゃないか、なんて余計な心配はしなくていい。気まぐれでも、何でもかまわない。ふと惹かれるものがあったら、計画性を考えないで、パッと、何でもいいから、自分のやりたいことに手を出してみるといい。

p56

岡本太郎は、何かを始めるときは三日坊主でもいいのだと述べる。習慣をきっちりと形成するというよりかは、やりたいことにとりあえず手を出そうという「ライブ感」を重視する。

確かに、「始めようとしてもつづかないんじゃないか…」と悩むことが、習慣を形成すること、新しいことに挑戦することを委縮させるのだ。岡本太郎は、それを意識して「続かなくてもいい」と言っているんじゃないかと思う。

許し②「未熟でもいい」

だから、自分は未熟だと言って悩んだり、非力をおそれて引っ込んでしまうなんて、よくない。

それは人間というものの考え方を間違えている。というのは人間は誰もが未熟なんだ。自分が未熟すぎて心配だなというのは甘えだし、それは未熟ということをマイナスに考えている証拠だ。

ぼくに言わせれば、弱い人間とか未熟な人間のほうが、はるかにふくれあがる可能性を持っている。

p76

岡本太郎は、未熟なことを恐れる必要はないという。なぜなら人間はデフォルトで未熟なのだから、そんなことは考えたってしょうがないのだ。未熟であること、下手であることを認めてしまうことで、逆に自分特有のユニークな未熟さやユニークな下手さに開かれていくと岡本は主張する。

まとめ

『自分の中に毒を持て』に限らず、岡本太郎の本には他の人の言葉を借りた引用が少ない。というかほとんどない。それは、岡本太郎が「自分の確信したこと」しか話さないからなのだと思う。

どこまでも自分を貫く岡本太郎の言葉は、熱い。僕は『自分の中に毒を持て』を読み、紙面に叩きつけられた情熱が、ページをめくるたびに伝わってくるような印象を受けた。

正直好きな部分が多すぎてどこを抜いて紹介したらいいか悩みまくった。ぜひ、興味のわいた方は『自分の中に毒を持て』を読んでほしい。

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