「待つ」ことが許された距離『658km,陽子の旅』

雑談

物語のはじまり

東京に住む主人公の陽子。非正規雇用、独身、42歳、引きこもりがち。

ある日、実家の青森に住む父親が急死したという知らせが届く。出棺は明日の12時。陽子は重たい足を上げ、青森へ旅に出る。

青森という「目指すべき場所」。

20年会っていない父の姿を見るという「理由」。

明日の12時までという「リミット」。

物語の結末へと線を引くこれらの要素が、冒頭10分足らずで提示される。658kmを進む陽子の旅は、あっさりと幕を開けることとなる。

ヒッチハイクと「どもり」と「沈黙」

東京から青森、658km。この旅で多くの割合を占めるのは、「ヒッチハイク」のシーンである。

東京から親族の車に乗って青森へ向かう陽子。しかし、ある手違いが発生し、陽子は水戸のサービスエリアに一人取り残されてしまう。所持金は2000円と少し。携帯は壊れている。タイムリミットの明日の12時までに青森へ向かう手段として、陽子はヒッチハイクを選択する。

そのヒッチハイクには「どもり」と「沈黙」がある。

長年の引きこもり生活により、陽子は人としゃべれなくなっている。「青森まで乗せてくれませんか」。その一言が言えず、サービスエリアのトイレの鏡で発声練習を行う始末である。

優しい人が車に乗せてくれた時も、陽子はお礼が言えない。投げかけられた質問に答えられない。陽子は沈黙し、陽子に出会った人はただ一方的に語り掛ける。この映画の多くの割合を占めるヒッチハイク中のシーンにおいて、陽子を乗せた車内には、語る人物/聞く陽子というムードが充満している。

陽子はその「沈黙」や「どもり」によって、自分の感情を吐露することができない。しかし、その「沈黙」や「どもり」の中には、「なぜ陽子は20年もの間父親に会っていないのか。」「陽子はなぜキャリア形成に失敗してしまったのか。」そういった物語の核心へと近づいていく契機が含まれており、物語にはいつそれらが発露されるのかという緊張が内在していた。

陽子という人物

私がこの映画を見て感心したのは、陽子が単純に世界から肯定され、愛される人物として描かれていないということである。

ヒッチハイクにおいて、陽子の「沈黙」や「どもり」を無条件で肯定してくれる人物はまれである。大半の人々は陽子に話しかけられると駆け足で逃げ出したり、早々とサービスエリアに入っていったりする。陽子は、単純に世界から肯定される人物として描かれてはいない。

また、陽子には、おおよその物語の主人公が持つ魅力というものが備わっていない。

ヒッチハイクをするうえで陽子はお礼も言わないし、時にはヒッチハイクをしてくれた人に対してお金を無心したりする。私は、こういった陽子の姿から人間的魅力というよりも、人の善意を食い物とする陽子の性格を感じてしまう。

あるいは、ヒッチハイクをしてくれないかとサービスエリアの駐車場内で叫んだり、執拗に車の周りをぐるぐると回ることも陽子はする。

このように、陽子は現実世界にいればどちらかといえば好感の持てない人物である。

そんな陽子がしかし、一体腹の底に何を隠しているのか。その「沈黙」や「どもり」の中には陽子の人格を形成した何かが潜んでいるのではないか。それが気になってしまうから、この物語は求心力を持っている。

ヒッチハイク

「ヒッチハイク」とは不思議な行為だと思う。

一方で、他人からの親切心を感じられる行為でありながら、また一方で人の善意に付け込む行為でもある。そのような両義性を、ヒッチハイクは抱えている。

また、ヒッチハイクはその場で初めてあった人に、自分の身体の「行先」を全面的に預けてしまう行為でもある。自身の安全/危険は、同乗者の気持ち次第でいくらでも変わりうる。中盤、陽子の持つ女性性によって、ヒッチハイクを前提とした旅に転機が訪れるシーンはその典型であろう。

しかし、ヒッチハイクの持つ『自分の身体の「行先」を全面的に預けてしまう』感覚というのは、陽子にとって新鮮なものだった。

なぜか。その新鮮さにはやはり、父との確執、陽子の持つ来歴という、先ほどから何度も確認している物語の核心が分かちがたく結びついている。

「待つ」映画、『658km、陽子の旅』

『658km、陽子の旅』は待つ映画だ。

ヒッチハイクの旅を通じて「場所」や「人物」というコンテクストを変えていく陽子の、胸の内が発露するかどうかをただひたすらに待つ映画である。

ヒッチハイクの車内には、陽子の気持ちがいつ吐露されるかという緊張に満ちている。身体の動きを制限される「車内」という狭い空間の中で、話される言葉を待つこと。その猶予としての658kmを、二時間かけてたどっていく映画が『658km、陽子の旅』なのだと、私は感じた。

※シアターキノで8/25(金)まで

シアターキノ (theaterkino.net)

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