映画製作×女子高生×SF!『サマーフィルムに乗って』で濃密な青春を呼び覚ませ!

映画

「高校生っていいよなあ」

札幌駅の商業施設や地下街で、制服姿の高校生を見るたびに僕はそう思う。

学校帰り、ヴィレッジヴァンガードやゲームセンターで遊んでいる高校生を見た時、僕はいつも彼らの持つ(そしておそらく僕が失ってしまった)「きらめき」のようなものを浴びることとなる。

現在高校生活をエンジョイしまくっている妹を見るときも同じだ。妹から送られてきた文化祭の写真や、インスタのストーリーを見るたび、僕はいつも高校生の持つ「きらめき」に驚かされるのだ。

(ちなみに「高校生っていいよなあ」というのは断じて変態的な意味合いではない。断じて、ない。)

彼らの持つ「きらめき」の正体は何なのだろう。彼らはなぜ「きらめいて」見えるのだろう。

少し悩んだ末、彼らが「きらめいて」見えるのは、彼らが大学生の自分よりもはるかに高い密度の中で、一日一日の時間を過ごしているからなのではないかと思った。

僕がエスタやステラプレイスで見かける高校生は、「今、この瞬間」を自分よりも濃密に体感している気がする。少なくとも、自主休講と全休を繰り返して曜日感覚を狂わせている文系大学生の僕よりかは。

高校生が「今、ここ」を濃密に体験していることの証左にはならないかもしれないが、以前見た『彼氏彼女の事情』というアニメの中ではこんなセリフがあった。

「高校時代の1日は大人になってからのひと月よりもはるかに貴重ですよ」

確かに、大学生になってから時間がたつことの速さを感じるようになった。

大学生がダラダラと過ごす1週間と、高校生の過ごす一週間の密度を比べると、やはり高校生の方が一週間を「長く」生きている気がする。

「ジャネーの法則」というものがある。これは「人生のある時期に感じる時間の長さは、年齢の逆数に比例する」という法則だ。

だから僕にとって高校生が「きらめいて」見えるのは、高校生が持っている(そしてかつて自身が持っていた)「今、ここ」に対する濃密な時間感覚へのあこがれからなのかもしれない。

(誤解しないで頂きたいが、別に、僕はこの文章において大学生を「下げ」、高校生を「上げ」たいわけではない。大学生は高校生とは違う仕方で、大学生は泥臭いきらめきを持っているのだと僕は思いこんでいる。)

物語の世界の中の高校生

アニメ、小説、映画、漫画…媒体を問わず、高校生を主人公にした物語は現在世界にあふれている。

なぜ高校生を物語の中心におくことが多いのか?この質問には様々な答えがある。

例えばマーケティングの観点から見れば、可処分時間が大人よりも多く、かつ漫画やアニメに対して強い消費志向を持つ高校生に向けて、多くの作品が提供されているからと答えることが出来る。

また、社会学的な観点から答えることもできる。

社会学者の宮台真司は『14歳からの社会学』の中で、「『学校』が物語の舞台としてよく選択されるのは、誰しもが経験している『学校』という共通前提が、多くの観客を呼び込むから」というようなことを言っていた。

これらの解答は多分正しい。けれどもっとシンプルに考えてもいいんじゃないかと僕は思う。

高校生が主人公の物語が多いのは、そしてそれが多くの人に求められ続けているのは、ただ高校生の持つ「きらめき」を、濃密な時間感覚を、作品を通して感じたいからなんじゃないかと僕は思う。

僕らは、高校生が主人公の作品を見ることで、かつての濃密な時間感覚を疑似体験しているのではないか?

『サマーフィルムに乗って

『サマーフィルムに乗って』は高校生が主人公の青春映画だ。

主人公は時代劇好きの映画オタク。クラスや部活動の中では日陰者だが、文化祭で時代劇映画を上映したいという野望を持っている。ある日、主人公はミニシアターで時代劇を見ている際、自分の映画にピッタリなイケメンを見つける。無理やりイケメンを誘い、他にもメンバーをかき集めながら撮影を重ねていく主人公だったが、次第にイケメンに惹かれていく…。

『サマーフィルムに乗って』はこのような話である。

(ネットには『時をかける少女』に『映像研には手を出すな!』を足した作品と書いてあった。言いえて妙だと思う。)

この映画は失礼を承知でいうのなら「ありがちな」青春映画だ。

『ウォーターボーイズ』に象徴されるような、高校生が目的をもって各々の活動に打ち込むことで、そこでの人間関係を充実させていく青春の物語だ。けれど、『サマーフィルムに乗って』のストーリーが「ありがち」だからといって、不思議と退屈することはない。

それはこの映画が映画愛にあふれた作品として、丁寧に作り上げられているからだろう。

かつて、僕の高校時代のクラスメイトは、(僕同様)くすぶっているようなやつらばかりであったので、盛んに「青春は虚構だ」「青春は作り上げられたものだ」と述べ立てていた。

しかし、仮に青春が作り上げられたものだとしても、高校生が活躍する作品の中でしか現れないイメージに過ぎないのだとしても、別に構わないのではないかと今は思う。むしろ、作り上げられた青春の、高校生の持つ「きらめいた」イメージを読み込むことに、何かしらの意味があると僕は『サマーフィルムに乗って』を見た後に思った。

年を取っていくたびに濃密な時間間隔を失っていく僕らは、高校生の時に持っていたような「きらめき」を掴むことはもうできない。しかし、かつて濃密な時間感覚の中で過ごした「あの時」を、僕らは作品によって呼び覚ますことができる。

『サマーフィルムに乗って』は、記憶を呼び覚ます映画だ。存在したかもしれない、映画にまみれた、夏の記憶を。

余談

この映画の主演は元乃木坂46の伊藤 万理華だった。そのボーイッシュな可愛さ演技や殺陣のうまさに僕はすっかり魅了されたのだが、映画を見ている間伊藤 万理華にどこか違和感を感じていた。

そして気づいた。伊藤 万理華はめちゃくちゃサークルの先輩に似ているのだ。ミスチル狂いで、タンヤオが好きで、「半袖不要理論」を唱え、将来SASUKEに出場することを目指している奇人の先輩に..

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