こんにちは、現役文系北大生の各駅停車です。
今回はビジネスマンにも人気な、「時間の使い方」についての哲学書、セネカの『生の短さについて』の内容を紹介していきたいと思います。
本を読んだ動機「2021年を振り返ったら、何もなかったから」
僕は、この本を2022年の元旦に読みました。
僕にとって、2021年は、受験勉強を終え、新しく大学生として過ごした一年でした。
しかし、高校の時と比較すると、2021年はあまり楽しくない一年でした。
というのも、大学生活というのがこんなにも自由であると思っておらず、長く与えられた時間をうまく使うことができなかったからです。
1年生の前半は、新しい生活とオンライン授業に戸惑い、サークル活動やアルバイトにも積極的になれず、ひたすらに暇な時間を過ごしていました。
ひどいものになるとBOOKOFFと家を往復するだけの日や、アマゾンプライムでひたすら映画を見ているだけの日とかがありました。
そして1年の後半は、予定を詰めすぎたせいで、自分に向きあうことがなく、成長した実感が得られない時期になってしまいました。
対面授業が増え、周りの人たちが大学生らしく充実している姿を見て焦り、自分も充実させなければという思いに強迫されました。
結果、スケジュールを埋める事だけに執心することになり、サークルやアルバイトで時間を「つぶす」ようになっていきました。
そういう風に生活していると、だんだんと自分が大学で何をしたかったのかが分からなくなっていきました。
そして、気づいたらバイトとサークルとyoutubeで一日が終わっていく生活になってしまいました。
そんな手からこぼれ落ちていくような一日が嫌で、休日は外出することが増えていきます。
しかし、どこかに遊びに行っても、「大学でやりたいことに打ち込んでいる人と比べて、こんなところで遊んでいる自分は現在成長しているといえるのだろうか・・・」という不安が常に首をもたげてくるのです。
年末になって、ようやく自分が一年を無為に過ごしていたことに気づき、「2022年こそはもっと大学生の時間をうまく使ってやる!」と思いました。
親に学費を払ってもらってモラトリアムを与えてもらっている以上、時間を浪費したくはありません。
以上のような気持ちを抱えている時に、本屋で出会ったのがセネカの『生の短さについて』という本でした。
「生は浪費すれば短いが、活用すれば十分に長い」と説くセネカ。時間の使い方に悩む文系大学生を救っておくれ・・・。
(ページ番号は岩波文庫版大西英文訳の『生の短さについて』に依ります)
『生の短さについて』について
『生の短さについて』は、ローマの哲学者、セネカがパウリーヌスという友達に送った長い手紙です。
与えられた人生をどのように扱うのかについて、人間の実存に重きを置くストア派らしい立場から論じています。
この文章は常に語り掛けるような文体をとっているため、セネカがパウリ―ヌスを指していう「君」という言葉が、次第に自分のことのように感じられてきます。
内容の紹介
まずは、セネカが人生の使い方について、何を大切にしているかを見ていきたいと思います。
冒頭、セネカはこのような警句から議論の軸を定めます。
「われわれにはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである」(p12)
去年、多くの時間を持て余した大学生の僕には耳が痛い言葉です。セネカは、僕たちが時間を無駄に使うことを「浪費」と言い切ってしまいます。これは厳しい。
「君たちの生は、たとえそれが千年以上続くとしても、必ずやきわめてわずかな期間に短縮されるに違いない。」(p24)
「君たちはそれをつかまえようとも、引きとめようともせず、『時』という、万物の中で最も早足に過ぎ去るものの歩みを遅らせようともせずに、あたかも余分にあるもの、再び手に入れることのできるものであるかのように、いたずらに過ぎ行くのを許している」(同)
このように、セネカの人生観は、実際に生きている時間と浪費した時間をわけて考えるところから始まります。
そして、浪費した時間はすさまじく速く流れていってしまうそうです。
僕も、最も充実していた高校1年生の頃と大学1年生の現在を比べると、大学1年生の時期は秒で過ぎ去っていった気がします。
つまり、セネカは浪費された時間こそ人生を短くするものだと述べ、それをなくそうと励むべきだとします。
では、セネカはどういった時間が「浪費されたもの」であると考えているのでしょうか?
『生の短さについて』では、「浪費された時間」とみなされるものが2つ明示されています。
① 他人の為に使われた時間
② 忙殺されている時間
以下、この二つを説明していきます。
① 他人の為に使われた時間
「誰もが他人の誰かのためにみずからを費消しているのである」(p14)
この①を受け入れるのに、僕は最初抵抗がありました。
なぜなら、「他人の為に使われた時間」という言葉を見て、僕は「他人に割く時間を切り捨てて自分のことだけ考えるというのは、むしろ余裕のない人間のすることじゃないのか?」「自分のためにしか時間を使わない嫌な奴にならないといけないのか?」と思ったからです。
セネカは、家族を手伝ったり、友だちの悩みを聞く時間は無駄な時間と考えているのでしょうか?
どうやらそういうことではないようです。セネカは自己中な人間になれといっているわけではありませんでした。
何度も読んでいくうちに、僕の理解は浅かったことに気づきました。
セネカはおそらく、「他人の為に使われた時間」というのを自分のやりたいことを意識せずに他人と交わった時間であると捉えています。
「あなたが生のどれほど多くの時間を詮ない悲しみや愚かな喜び、貪欲な欲望や人との媚びへつらいの交わりが奪い去ったか、あなたがその生の中からどれほどわずかな時間しか自分のために残しておかなかったか。」(p17)
セネカの恐れる「他人の為に使われた時間」というのは、「詮ない悲しみや愚かな喜び、貪欲な欲望や人との媚びへつらいの交わり」のために使われた時間のことを指すのでしょう。
それは多分、自分にとって得るものがなく、ただ惰性でコミュニケーションを繰り返しているような時間です。
ときたま、「自分がなんでこの人と関わっているのか」と心の中で意識してみれば、そういった無益な交流から抜け出して、時間を浪費することを防げるのだとセネカは考えているのだと思います。
僕も、去年を振り返ってみれば、そういった交流が多かったような気がします。
特に、僕は前期に、twitter上でそういったコミュニケーションばかりをとっていた気がします。
「他人の為に使われた時間」、つまり惰性でコミュニケーションを続ける時間から脱出するためには、自分にとって有益な人だけと閉鎖的に関わっていくというよりもむしろ、いろいろな人とのコミュニケーションを繰り返す中で、自分にとって誰との交流が必要かどうかを考えていくことが大切なのだと思います。
ざっくりといえば、人間関係の中で無駄になっている時間をなくすこと・・・それこそがセネカのいう「他人の為に使われた時間」をなくすコツでしょう。
② 忙殺されている時間
「何かに忙殺される人間には何事も立派に遂行できない」(p25)
浪費された時間の2つ目としてセネカが挙げているのが、忙殺されている時間です。
セネカは、忙しさに身をゆだねる人間こそ、人生が無駄になっていくのだと考えています。
セネカのいう「忙殺される人間」とはどういった人のことを言うのでしょうか?p38~p43に書かれている事例を自分なりにまとめると、ざっとこんな感じになります。
金儲けに専心する人/人脈づくりのためにもみくちゃになる人/モノにこだわりすぎる人/スポーツ観戦に熱狂しすぎる人/身だしなみを整えるのに時間をかけすぎる人…
セネカは、上に挙げた人々が忙殺された時間を過ごしているのだといいます。
なるほど、たしかにこれらの事柄に費やされた時間というのは、後から振り返って考えたとき、「あの時の自分って何してたんだっけ・・・」と思うような時間なのかもしれません。
セネカはこうも言っています。
「諸々の事柄に散漫になった精神は、何事も心の深くには受け入れられず、いわばむりやり口に入れられた食べ物のように吐き戻してしまう」(p25)
忙殺されている人は、その人の深いところに根差すような経験を得られないそうです。それは、確かに人生において浪費なのかもしれません。
では人はなぜ忙殺されてしまうのか?セネカはこう言います。
「彼らはそうしたことで優雅だとか垢ぬけているといった評判を得ようとするのであるが、あまりに度が過ぎているために、身についた悪癖があらゆる私的な生活までについてまわり、飲むにしろ食べるにしろ、人に見せびらかさずにはいられないのである。」(p41)
つまり、セネカは他人の評価を気にしすぎる人が、次第に忙殺されていくのだといいます。
僕も後期はまさに「忙殺されている時間」を過ごしていました。そしてそれは、インスタで他人の充実した大学生活を見て、「自分も充実させなければならない」と思ってのことでした。
自分がやりたいことをやっているというより、充実しているふりをするために予定を詰め込んでいました。
他人の評判を過度に気にしすぎないことが、「忙殺された時間」をすごさないためには必要です。
まとめ
セネカは、浪費された時間こそ人生を短くするものだと述べ、それをなくすべきだとします。
そして、人は惰性で人と付き合ったり、忙しさにかまけることで人生を浪費するのだと述べます。
うまく人生を活用するためには、自分の人間関係を改めて考えたり、他人の評判を気にしすぎないことが大切です。
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