物体として、宇宙をひずませているという意味での孤独『二十億光年の孤独』

雑談

『二十億光年の孤独』は詩人・谷川俊太郎が17歳の終わりから19歳半ばまでに書いた作品が収録された本である。高校を卒業した後大学に行かず、親のすねをかじっていた谷川俊太郎の焦りや未来への展望が、詩という表現の中に押し込まれている。


本を読んで、気になった場所を、一個ずつ紹介していく。

はるかな国から


彼は昨日発ってきた。
十年よりもさらに長い、一日を旅してきた。


長い間住んでいた場所から離れ、新天地へ向かう時の一日って、多分本当に密度が高い。でも、その密度ってその時でしか体験できない強さだろうなあとも思う。

新しい土地に住み慣れた時、その強度を振り返ることは難しくなる。


雲の多い三月の空の下
電車は速力をおとす
一瞬の運命論を
僕は梅の匂いにおきかえた

「僕」の目の前で、速力を落とした電車と共に、雲がゆっくりとただよう景色が広がっている。

その風景に出会ったことは運命であるが、「僕」はそんな眼前の世界に広がる「一瞬の運命論」を、「梅の匂いにおきかえ」て捉える事しかできない。

春の景色を切り取ることによって、世界から断絶していることを知る諦念の叫びなのだと僕は感じた。

地球があんまり荒れる日には

地球があんまり荒れる日には
僕は火星に呼びかけたくなる
こっちは曇で
気圧も低く
風は強くなるばかり
おおい!
そっちはどうだあ
(略)

地球があんまり荒れる日には
火星の赤さが温いのだ

なぜ、「火星に呼びかけたくなる」のだろうか。

なぜ、彼は周囲に存在している人々ではなく、火星に向かって呼びかけなければならないのだろうか?

周囲の人々とは共有できない感情を抱えているからなのか?

谷川俊太郎の想像力は、宇宙に飛び出していく。そしてそれは、表題作である「二十億光年の孤独」に繋がっていく。

二十億光年の孤独

人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする

「地球があんまり荒れる日には」の「僕」と同じような仕方で、「人類」は火星に向けて呼びかける。「仲間」とは何の仲間なのだろうか。

孤独を共有する仲間だろうか?しかし、孤独を共有するというのは、なんだか矛盾しているような気がする…

万有引力とは
ひき合う孤独の力である

二つの物体間に働く万有引力を、谷川俊太郎は「ひきあう孤独の力」と定義する。万有引力は、質量があるものにかかる。

だから、人は質量を持って世界の中にいる時、常に「ひきあう孤独の力」を持っている。谷川俊太郎にとって、孤独は共有される「もの」ではなく、世界の場の中に広がる「力」なのだろうか。

宇宙はひずんでいる
それ故みんなは求めあう

ピンと張った薄いシーツの上に、重さを持ったボールを落とすと、ボールが落ちた周辺のシーツは、ボールに吸い込まれるようにくぼむ。

シーツを宇宙、ボールを物体に置き換えたものが、万有引力の仕組みである。人は、存在することで、宇宙を少しだけひずませる。そのひずみが宇宙(シーツ)の傾斜となって、人は引き寄せられていく。

谷川俊太郎は、自身で「二十億光年の孤独」をこう解釈している。

「二十億光年は当時の私の知識の範囲内での、宇宙の直径を意味している。

特に天文学に興味をもっていたわけではないが、一人っ子で恵まれた環境に育った十九歳の私は、まだ人間関係の中での孤独を知らず、むしろ無限といっていい宇宙の中に投げ出された一有機体としての自分を、さみしさとか、ひとりぼっちとかの感情をあまり伴わずに、孤独と規定していたようだ。」(p133)

谷川俊太郎の語る孤独は、人間関係の中での孤独ではない。

宇宙をひずませている、質量を持った存在としての孤独だ。

他の人間と(あるいは火星人と)同質でありながらも、一つの物体として投げ出されていることへの孤独が、詩の中では語られている。

余談
7月下旬、朝から晩まで期末レポートを書き、精神がやられたある日の夜に、僕は高校一年生の頃の夢を見た。
その夢の中で、僕は合唱曲の『二十億光年の孤独』を歌っていた。なぜ、このタイミングで高1の頃の、合唱コンクールの頃の思い出がよみがえってきたのだろうか?

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