映画館で映画を見る事の意義、その理論的補強

映画

二年の後期の間、僕はずっと「映画館で映画を見る事」は一体どのようなことを意味するのか?ということを考えていた。

前回の文章ではその問いについて、シアターキノに通うことによって得た私の個人的な経験から回答してきた。しかし、それはあくまで「僕にとって」の「映画館で映画を見る意義」に過ぎない。

前回の記事

映画館で映画を見ることはどのような意義を持つか、シアターキノに通って感じたこと

なので、今回の記事ではより普遍的に「映画館で映画を見る事」は何を意味するのかについて考察していきたい。

本記事において、私は三つのアプローチを用いる。

Ⅰでは映画観客論の立場から、Ⅱでは札幌のミニシアター、シアターキノに関する文献から、Ⅲでは『そして映画館はつづく』(フィルムアート社,2020)という本に書かれた映画関係者のインタビューから、映画館で映画を見ることの今日的な意義について考えてみたいと思う。

Ⅰ映画観客論

「なぜ、人は映画館で映画を観るのか?」

調査を始めてすぐ、この質問を周りの友人にすると、帰ってきたのは以下の言葉であった。

「上映環境(巨大スクリーン/音響/空調/冷暖房etc)が整っているから」

「パンフレットや入場者特典が欲しい」

これらの答えは、全く違和感なく受け入れることができる。その通りだからだ。映画館は映画を見るために整備された、快適な空間を持っている。

しかし、これらの答えは映画館で映画を見るという「体験」というよりも、映画館の「設備」についての言及をしている。

確かに「最新の設備と清潔で快適な鑑賞環境」(『映画館と観客の文化史』p256)を「近代映画館」(同)の条件とし、そういった映画館の設備面が映画観客を惹きつけていたとする加藤(2006)のような先行研究がある。

しかし、こういった映画観客論の提唱する設備面についての条件は「映画館で映画を見ることの今日的な意義」の前提条件にはなるかもしれないが、「意義」そのものであるとは考えにくい。

もし仮にこれが「映画館で映画を見ることの今日的な意義」なのだとしたら、IMAXシアターや音響設備、最新の空調設備などが整っているシネマコンプレックスで映画を見ることが、今日においては最も意義のあることとなってしまう。

映画館の設備は確かに映画館に人々を惹きつけることに繋がっているかもしれないが、映画館で映画を見る意義は、設備の優劣によって変わってしまうものではない。

もし設備の優劣のみによって映画館の価値づけがされているならば、設備が大規模なシネマコンプレックスに比べて劣っているミニシアターを守る取り組み「ミニシアターエイド」のような活動を説明することができない。

Ⅱシアターキノ

シアターキノは、札幌市、狸小路にあるミニシアターである。

1992年7月4日に開館し、今年2022年で開館30周年を迎えた。

シアターキノの大きな特徴として挙げられるのが、市民出資によるNPO型の映画館であるということである。また、運営主体も専属スタッフ五名、ボランティア40名で組織されており、その成り立ちから現在進行形の運営に至るまで、市民の力を大きく借りているのだ。

シアターキノでは、最新の話題作というよりも、古今東西の名画やインディーズ系の映画が盛んに上映されている。

「映画館で映画を見ることの今日的な意義」を考える上で、シアターキノについて考えることは有益である。

なぜなら、シアターキノはオーナーである中島洋氏自身が自身の映画館を意義付けし、さらに参考文献がその意義について追従して語っているからだ。

映画館側から発せられた、「映画館で映画を見ることの意義」とは一体どのようなものなのだろうか?

久田(2005)は、シアターキノを「芸術文化の振興」と「地域社会の発展」を目的とする「コミュニティシネマ」(後述)と捉え、その運営の基礎に中島洋氏の考えである現場概念、「文化」と「多様性」を挙げている。

久田は中島洋氏へのインタビューを元に、以下のように、「文化」と「多様性」を定義づけている。

『文化』とは、映画の『芸術としての文化的側面』を重視し、現在の主流である資本主義経済の中で商業ベースでは採算が合わず上映されないようなマイナー、あるいは小さな作品も含めて上映し、それに共感を抱く観客を育て、多様なものが存在しうる状況をつくることだと言えるだろう。

多様性とは、種類の異なる複数のものが同居できることだとわかる。そして、そこに互いに影響を与え合うことで、より多くのものが生まれるおもしろさを感じているのだろう。また、「多様性を認め合うこと、マイナーな表現も発表できる、観賞できる環境があることがさっぽろの文化なのだ。」という表現からは、「文化」≒芸術という捉え方ではなく、それよりも広い意味で、多様性が存在し得る状況を指していると思われる。

以上の「文化」「多様性」の定義から、中島洋氏は自身の映画館を以下のように意義付けている。

つまりシアターキノとは、「マイナーあるいは小さな作品」を見る「観客を育て」、「多様なものが存在しうる状況をつく」ることで、「より多くのモノがうまれる」「環境」なのだと、中島洋氏は意義付けている。

このように、久田の先行研究においては、設備面だけに終始しない、シアターキノで映画を見ることの意義が記述されていた。

Ⅲ『そして映画館はつづく』(フィルムアート社,2020)

Ⅱにおいて、札幌の映画館シアターキノを取り上げ、映画館側が「映画館で映画を見ること」をどのように意義付けているかの一例を見てきた。

では、映画館に行く私たちは、映画館で映画を見ることについて、一体どのような意義を感じているのであろうか?

Ⅰの映画観客論と異なるアプローチで、私たちが映画館で映画を見ることに対してどのような意義を感じているかということを詳細に記述した本がある。それは、『そして映画館はつづく』(フィルムアート社,2020)という本だ。

この本の「はじめに」には、このような文章が書かれている。

「作品の記憶とともに、その映画館の空気や匂い、あるいは自分の周辺に座っていた人たちがどんな人たちだったか、かすかにでも思い出されはしないでしょうか。映画を観ることとは、それを取り巻く様々な時間的・空間的な状況と、ほのかに、しかし確実に結びついているはずです。」(p1)

『そして映画館はつづく』はこのように、「時間的・空間的な状況」に「確実に結びついている」鑑賞体験、つまり映画館における鑑賞体験をテーマに、様々な映画館関係者へのインタビューによって、映画館で映画を観ることの今日的な意義を解き明かしている書籍である。

私は、この本の中に書かれているインタビューの要素を抽出し、二つの側面から「映画館で映画を見ることについての今日的な意義」を考える。

①個人的なレベルにおいて、映画館で映画を見ることの意義

第一の側面として考えたいのは、「個人的なレベルにおいて、映画館で映画を見ることの意義」だ。映画館で映画を見るとき、観客は以下のような体験をしている。

1内省

2集団的な、強度をもった作品受容

3日常からの切断

この三つについて、インタビューの記述を参照しながら見ていこう。

1内省

映画監督・黒沢清のインタビュー記事には、このような記述がある。

「どうやら自分の隣の客は映画を見る気などなく寝ている。それも良いだろう。しかし僕はこの映画を見ている。映画と自分が向き合っていると同時に、どうもそうではない自分以外の他の人たちがいる。そのことによって、社会の中で自分が何者であるのかというのが嫌でも認識される場所が映画館なのだと思うわけです。もちろんそんなことを認識するために行っているわけじゃないんですが、いやでも認識しちゃいますよね。」(p174)

この記述からは、同じ映画を見ている人たちとの反応の差異によって、自分の社会的立ち位置を認識する内省作用を、映画館で映画を見るという体験が持っていると捉えることができる。

2集団的な、強度をもった作品受容

映画キュレーター・杉原永純は自身の論考でこう述べる。

「コロナ禍を経た今、振り返ってみてその時映画館に求められたのは、一本の映画の情報だけではなく、ともにスクリーンを見つめる匿名の他者の存在だったのではないかと思う。映画館で映画を見た場合、他のお客さんの空気を感じることになる。深く共感している人もいれば、そうでない人もいる、そんな気がするという微妙なあわいを、映画を見ながら感じる。いや、そんな肌感覚は得ないよという人も、少なくとも、一緒に見た人がいたという事実は残る。他者の存在が、映画を見ることを少しだけ立体的にしてくれる。」(p242)

杉原は、映画館で映画を見るときに、自分と同じように映画を見ている匿名の他者の存在が、作品受容を「立体的」にするのだと考える。

また、映画批評家・坂本安美(あび)の論考を見てみよう

「自分の背後からやって来る光の束がスクリーンに投影されるのを、観客は孤独に、しかし他の多くの見知らぬ人々とともに見る。」(p260)

「時間を包含する表現形態である映画は、定められたある長さをともに過ごすことを私たちに要求し、それによって濃密な集団的体験を私たちに与えてくれるのではないか。」(p261)

ここでは、映画館で映画を見ることは「集団的体験」であり、一人で見るのよりも強度を持った作品受容がそこでは行われることが示唆されている。また、「定められたある長さを共にする」という、映画館で映画を見ることの時間的拘束がその集団体験を支えていることも指摘されている。

3日常からの切断

先ほども紹介した映画キュレーター・杉原永純はこのようなことも述べている。

「オフラインである環境は今や貴重である。SNSで目にする情報は今やもれなく自分仕様にカスタマイズされている。それは、果てしなくストレスフリーでもあるし、時に、他者の声を過度にキャンセリングし、自分の考えを正当性のみを加速させる。オフラインの映画館では、一旦掌に置かれたデバイスから目を離し、スクリーン上で起こることに目を凝らし、耳を傾ける事を促す。(中略)

シングルタスクに特化した映画館は、今こそ見直される価値がある。」(p242)

確かに、映画館に映画を見に行くことは、日常を過ごしているとき常に、過度に供給されてくる情報をシャットアウトする機会を与える。

これは家で映画を見るときとは正反対であろう。家で映画を見るとき、私たちは常にその映画鑑賞を中断する機会に開かれている。その気になれば、スマホを開いて「オフラインである環境」から抜け出すこともできてしまうのだ。

以上、「個人的なレベルにおいて、映画館で映画を見ることの意義」について考えてきた。

映画館で映画を見ることは、過剰な情報、接続から一時的に離れる機会を生み、(③日常からの切断)個人に他者との反応の差異を通じた自己認識(①内省)をさせ、かつ「集団的体験」として作品を享受することを可能にする(②集団的な、強度をもった作品受容)。

これらの体験をできるのが、映画館で映画を見ることの、個人のレベルにおいての意義であると私は考える。

②映画館で映画を見ることの公的な意義

ここでは映画館で映画を見る事の公的な意義について、『そして映画館はつづく』の記述を拾いながら考えていく。具体的には先ほど取り上げた久田(2005)の論文を再度取り上げながら「コミュニティシネマ」という概念について述べていく。

「コミュニティシネマ」という概念について推進機関としての「コミュニティシネマセンター」は以下のように発表している。

「コミュニティシネマセンターは、フィルムライブラリー及びアーカイブ、美術館、地域型映画館、公共ホール、映画祭、自主上映団体、図書館、学校など、地域の映画・映像文化を担う組織が中心となって構成されるもので、主に上映普及活動と映像教育を通した、映像作品の多様性の確保と豊かな映画環境を創造することによって、芸術文化の振興、および地域社会の発展に寄与することを目的として、2009年4月に設立されました。」

コミュニティシネマセンターについて | Japan Community Cinema Center (jc3.jp)より)

引用部から見て分かる通り、「コミュニティシネマ」は映画館を通じた「芸術文化の振興」「地域社会の発展」を目指す取り組みである。現在、日本においてはこのような映画館が公的に意義付けられ、その運営が推奨されている。

また、コロナ禍におけるミニシアターの商業的な苦境を打開するための活動、「ミニシアターエイド」の発起人、映画監督・深田晃司はこのように述べている。

「最近の流れとして感じるのはやはり映画を上映するだけではなく、地域のコミュニティと密接に関係を持つようになった映画館が多いということです。

京都の出町座さんもイベントスペースを持っていますし、広島のシネマ尾道さんも地元の小学生を対象に『こども映画制作ワークショップ』という催しを五、六年ほど続けられていますが、そういったことはすごく真っ当な流れだなと。

自分が映画をつくるようになった十五年前頃の日本ではほとんどなかったことですが、欧米では劇場は公的な役割を担う場所であるという認識がやはり強い。」

(『そして映画館はつづく』p275~276)

映画館は現在、地域との繋がりや芸術振興といった公的な役割を期待されている。そしてそれはそのまま、映画館で映画を見ることの公的な意義に繋がると私は考える。

また、久田も指摘している通り、この「コミュニティシネマ」の考えは、元々ヨーロッパ諸国の取り組みを意識したものである。ヨーロッパ諸国では、公的に意義付けをされ、経済的な援助を国の機関から受け取っている映画館がある。その一例がドイツの「コミュナールキノ」だ。久田はこう述べる。

「1970年代から登場したコミュナール・キノでは、豊かな可能性の体験に主眼を置いた上映プログラムが編成され、歴史上の名作、特定の国や監督、俳優を取り上げた特集、新たな才能を発掘するためのインディペンデント映画や実験映画の上映などが主なプログラムとなっており、こうした上映事業は、地域好況団体や公的団体と連携して行われている。2000年現在、全国160のコミュナール・キノのうち、20%が市の直轄事業(担当は文化課、成人教育課、少年保護局など)、80%が公益を目的とした社団法人による事業を推進している」

このように、「コミュニティシネマ」の理想像としての「コミューナルキノ」というのは、公的に意義付けされるだけでなく、その運営に関しても公的な援助を受けている映画館なのである。

このような、公的な支援を受けている映画館はフランスにも存在する。

張智恩(2003)の「日本における市民映画館の台頭と展開」の、フランスの映画館に対する公的支援制度(CNC)の記述を見てみよう。

「(CNCは ※筆者注)国庫に歳入されない固有財源を持っている、という点である。CNCの財源は主に、映画館入場料に対する税(TSA。現在、入場料に対して10.72%)、テレビ放送の広告および配給に対する税(TST。現在、放送事業者は課税対象収入に対して5.15%、放送配給者は課税対象収入に対して0.50%から3.50%)、ビデオおよびビデオオンデマンドに対する税(TSV。現在、課税対象収入に対して5.15%)によって賄われており、国からは予算配分はまったくないという。」

このように、フランスの映画館には、(システムはドイツと異なるにせよ)固有財源による公的な経済的支援が行われている。

一方、日本はドイツやフランスのような、映画館を公的に、継続的に支援する制度が存在しない。映画館(特に商業的な苦境を余儀なくされるミニシアター)に、継続的な公的支援(公助)が現在求められている。

以上、映画館で映画を見ることの持つ、公的な意義について述べてきた。現在日本では「芸術文化の振興」「地域社会の発展」を目指す「コミュニティシネマ」が定義されており、その「コミュニティシネマ」で映画を見ることは公的な意義を持っている。「コミュニティシネマ」はドイツやフランスなどのヨーロッパ諸国の公的支援を受ける映画館をその理想像としているが、現在日本では公的に映画館を支援する継続的な仕組みは整備されていない。

以上、『そして映画館はつづく』の記述から見て取れる映画を見ることの今日的な意義を①個人的なレベル②公的なレベルの二つにまとめてきた。

まとめ

「映画館で映画を見る事の意義」、言い換えれば「なぜ家で映画を見るのではなく、わざわざ映画館に行くのか」ということについては、例えば以上のようなことが現在議論されている。

二年の後期の間、僕はずっと「映画館で映画を見る事」は一体どのようなことを意味するのか?ということを考えていた。

僕自身の持つ個人的な体験よりも普遍的に「映画館で映画を見ること」について記述したいという欲望の元、今回この記事を書いた。しかし、あくまで「映画館に行って映画を見る」ということは、(僕がそうであったように)まず何よりも個人的な体験として経験される。

映画館での映画視聴体験は、多様である。一人で、デートで、サークルのメンバーと、マーベル映画を、アングラ映画を、日活ロマンポルノを見るとき、それぞれの体験はやはり質的に違う。それはやっぱり映画館で映画を見る事が個人的な体験に依っているからだ。

なので、そういう個人的な体験を普遍化して掬い取るのは、自分でも「無粋」な気がしてならない。付言すると、そうした図式的なアカデミズムの態度が僕は大嫌いである。そしてそれがさも世界そのものを記述していると勘違いしている、アカデミズム側の人間も嫌いである。

しかし、僕にはそれが最大公約数なものであれ、「映画館で映画を見ることの意義」を抽出し、言葉にしていきたいという欲望がある。それは、これからも変わらない。

参考文献

シアターキノ,2022,『若き日の映画本』

フィルムアート社,2020,『そして映画館はつづく』

加藤幹郎,2006,『映画館と観客の文化史』中公新書

代島治彦,2011,『ミニシアター巡礼』,大月書店

和田由美,2015,北の映像ミュージアム2015『ほっかいどう映画館グラフティー』亜璃西社

張智恩,2003「日本における市民映画館の台頭と展開」

久田絵利,2005,『「文化の場所」としてのコミュニティシネマ』,北海道大学文学部卒業論文

上坂海月,2021,『ミニシアターに「こだわる」観客/「こだわらない」観客-札幌シアターキノを事例として-』,北海道大学文学部文化人類学演習期末レポート

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