文章を書くことについて、自分の目標について

雑談

私にとって何かを書くことの出発点は、空虚な青春を満たすためだった。

魔の中学時代

私の中学時代は散々たるものであった。

中学受験に受かり(受かってしまい)、電車で一時間の進学校へ通うことになった私は、そこで形容しがたいほど何も生み出さない中学生活を送ることとなる。

勉強ができるということが、人間的な評価の一番の指標になっていた環境、「派閥」に所属しなければ安心して発言することのできないクラス、私は進学校のその空間が嫌でしょうがなかった。

しかし、私の自尊心は確実にそれらの空間に依存しており(端的に言えば、勉強ができることが人間的に優れていることだと思っていた。アホすぎる。)、安易に抜け出すこともできなかった。

部活、あるいは課外活動に熱心になり、その「勉強」に一元化された価値基準から抜け出すことができればよかったのかもしれないが、私はただ将棋部で駄弁るだらけきった人間であった。

私に、進学校特有の空気を乗り越えていくだけのスキルとコミュニケーション能力があればよかったのかもしれない。

しかし、私は教室の中で起こるイベントに、現実の世界に耐えることができず、ひたすら現実世界から逃げることを選択した。

私はニコニコ動画にはまり、ソシャゲにハマり、二ちゃんにハマり、twitterにハマった。現実の生活よりも、twitterでソシャゲの知り合いと話す方が、スプラトゥーンのガチマッチにもぐる方が、シャドウバースのランク戦でマスター帯を目指す方が楽しかった。

中学時代に、私は何も成し遂げることができなかった。私の後ろにはただ通過していった時間があり、そこには何も残っていなかった。

記憶は驚くほど希薄だった。誰かと語ることのできる思い出もほとんどない。卒業式の日、電車で帰りながら中学時代を振り返った時、驚くほど記憶が残っていなかったことに絶望した。スマホのカメラロールは、ほとんどソシャゲのスクショだった。

高校は、こんな過ちを繰り返したくない。絶対に嫌だ。私はそう思った。父親の転勤で、高校から新しい環境に移ることになった私は、そこで中学の「借金」を埋めるくらいの充実した日々を送ろうと誓った。

中学と高校をまたぐ春休み、私は文房具屋でメモ帳を買った。そして、書き始めた。後から振り返った時のために、できるだけ多くのことを記憶したかった私は、自分の高校生活を書き留めることを始めた。

書くことを始めた高校生活

雑記帳に書くことは何でもよかった。

その時ハマっていたアニメ『ゆるキャン△』の感想や、自転車で行った場所のこと、クラスメイトとの面白かった会話やバスケの練習について、学校の行事、好きな人と話した会話など、自分が体験して、書けるだけのことを書いた。

進路や、部活の人間関係といった、ただ頭で考えているだけでは難しい問題もメモ帳に書いた。

将来の道が大人よりも限定されておらず、「なんにでもなれるから、何になればいいかわからない」高校生の、漠然とした実存の不安も書きなぐった。twitterで自己実現している同世代のツイートを見て、劣等感で死にたくなった時も、メモ帳が心の支えになった。

いつも、寝る前の30分は、今日起きた出来事やそんな悩みを書くために費やされた。

ネガティブなことも含めて、自分の経験したことを書くのは本当に楽しかった。

学校生活を過ごすうえで起きる様々なことを自分の言葉でまとめるのは本当に面白かった。文字で埋め尽くされた、一冊60枚のメモ帳を、後から振り返って眺めるのが好きだった。高校時代の三年間で、僕はこのメモ帳を35冊書くことになった。

出発点は恐れだった。後から振り返った時に思い出が消えていかないように、空虚な時間を過ごさないために、起こったことを書き記す。けど時間がたつにつれ、そういう動機は薄れて行った。ただ何かを書く。書いていることそのものが楽しくなってきた。

高校時代の前半から後半で性格がねじ曲がっていったのもあって、高校三年間で書くことはかなり変わったけど、基本的なスタンスは変わらない。「経験したことを自分の言葉で書き尽くすこと」。このことを僕は高校の三年間を通して続けていた。

(大学になってからはアナログなメモ帳ではなくパソコンのevernoteに日々の出来事を書いていっている。)

高校時代、私は授業をまじめに受けておらず(そもそもあまり学校に行っていなかった)受験の為に得た知識は手のひらからこぼれるように消えて言っているが、それでも何か学んだことがあるとすれば、それは「書くことの楽しさ」だと思う。

ただありのままに、思っていることを記述すること。そういう自足的な楽しさを私は発見した。

(私は大学に入ってからメルロポンティの思想にハマった。身体の経験した出来事を理路整然と「解説」するのではなく、ありのままに「記述」していく彼の哲学のスタイルは、書くことを自足的に楽しんでいる私のそれに近いのではないかと勝手に感じている。)

自足的なメモを超えて、自分の書いたものを外に向かって表現したいと考えるようになったのは、多分高2の冬のことだったと思う。

どういう授業だったか忘れたが、確かある日、クラス混合で自分の将来行きたい分野に関連した本を発表し合うというグループディスカッションが行われた。

心理学を勉強したい人は心理学の本、音楽関係の大学に行きたい人は音楽の本を紹介した。その中で私が選んだ本は、國分巧一朗の『暇と退屈の倫理学』であった。

「人間はなぜ退屈するのか」その問いをユクスキュルの環世界の概念を用いて語った『暇と退屈の倫理学』に当時の私はドハマりしており、オタク特有の早口でその魅力について語り尽くした。

正直、その時の自分の説明はなんら一貫性がなく、難しいことをさらに難しく伝えるという、プレゼンテーションとしては最悪のやりかたで、私は説明を行っていた。しかし、私の話を聞いていたクラスメイトが、このようなことを言ってくれた。

「○○(私の本名)の考えていることって本当に面白いね」

正直、本の紹介なので、私の説明していることは私の考えていることではなくて國分巧一朗が考えていることなのだが、私はその一言で、自分の好きなものを伝えることにハマった。

そして、自分の文章で自分の好きなものを語りたいという欲望が生まれた。

自分のメモ帳に、自分が触れた作品の感想を詳細に書くようになった。自分が好きな作品について描いた文章を誰かに見せる快感を私は知った。

自分の書いた文章を誰かに見せたくなった大学時代

自分の書いたものを発表したいという熱は、大学でさらに大きくなる。大学一年生の頃にはnoteでよくわからない文化評論を書き、大学二年生の6月からは、アドセンス収益を度外視したこのブログで好きなことを書きまくっている。

2022年の9月に、初めて同人誌を出した。札幌の文学フリマというところで。

そのクオリティはwordで書いたものをただコピペしてつなげ、canvaという無料のデザインサイトで表紙を作ったお粗末なものであったが、これが結構売れたのだ。すごい嬉しかった。

自分の書いた文章が価値を持って、誰かがお金を落としてくれる。その事実がめちゃくちゃに嬉しかった。この体験を、大学在学中にもっとしたいなあと思った。同人誌の売り上げはサイゼと飲み代で消えた。

私の目標、大学在学中に本を出したい

私は、(できれば大学在学中に)本を出したい。自分の書いた文章をより多くの人に見てもらいたい。早いもので、大学生活が半分終わってしまった。これからはその目標にもっと向き合えたらなと思っている。

しかし、私は何の本を出したいのだろうか?それが分からない。そもそも本が出せるだけのオリジナリティを私は持っているのだろうか?

『本を出したい人の教科書』という本を、私は東京の八重洲ブックセンターで買って読んだ。そこでは、オリジナリティのある本を出すためには、「非日常体験」や「膨大な時間とコストをかけた専門性」が必要だと書いてあった。

今の私にはそれがない…。読者が価値を感じてくれる文章を書くにはどうしたらいいのか?僕の書ける、本になるくらい価値のある文章ってどんなものなのか?

今は、そんなことを考えています。

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