「落伍者として生きてもいい」という消極的な人生訓『暗い青春・魔の退屈』

『暗い青春・魔の退屈』

なんと憂鬱なタイトルだろうか。中身もちゃんと憂鬱だった。僕はこの本を読んでいた時、安吾の悩みが自分へと乗り移ったような感覚を得て、眠れなくなった。

教科書的には『堕落論』で有名な坂口安吾の自叙伝集。

坂口安吾の全存在をかけた落伍者っぷりを堂々とした文体から伺うことができる。安宿で眠り、娼婦と肉欲に溺れ、酒を飲み思考を停止し、ひたすら倦怠に染まった日々…。

一編、また一編と読み進めていくうちに、「人間、もし思い立つことがあれば、落伍者として生きてもいい」という凄まじく消極的な人生訓を坂口安吾から譲り受けていくような気がしてならない。


この本では、坂口安吾の幼少期の原体験、そして20〜30歳までの退廃的な生活っぷりが赤裸々に綴られている。


個人的に、特に好きな一編を挙げるとするならば、やはり表題作の『暗い青春』であろう。
これは坂口安吾が大学を卒業し、創作の人生を歩んでゆくようになる転換期、25歳の出来事を映し出した一編である。


芥川龍之介が自殺した邸宅を仕事場所に選んだ安吾は、文学に生きる自分の先行きの暗さ、そして芥川邸から感じられる雰囲気暗さを重ねながら、翻訳や小説の執筆に励む。

「私は小説を書いた。文学に生きると言う。しかし、何を書くべきか、私は真実書かずにはいられぬような言葉、書かねばならぬ問題はなく、書き表さねば止(や)みがたい生き方も情熱もなかったのだ。ただ虚名を追う情熱と、それゆえ、絶望し、敗北しつつある魂があった。」(p47)

安吾がこのような暗澹(あんたん)とした思いを抱えていたのは、もちろん安吾自身の性格上のこともあるのだろうが、彼と同年代の人々が死んでいく様(さま)を見ていたからでもあるだろう。


安吾はそのころ、文学の同人雑誌を作っていた。しかし、病気に罹ったり、神経衰弱に陥ったりすることで、同人仲間が死んでいくのを安吾は見た。彼の暗い未来の展望には、若くして死んでいく文学徒達の姿を大いに取り込んでいたのだろう。

「青春ほど、死の影を負い、死と隣り合わせな時期はない。人間の喜怒哀楽も、舞台裏の演出家もはただ一人、それが死だ。人は必ず死ななければならぬ」(p53)


「私の青春は暗かった。私は死について考えざるを得なかったが、直接死について思うことが、私の青春を暗くしていたのではなかったはずだ。青春自体が死の影だから」(同)

文学者として有名になりたいと野心を抱えながら、何を書けばいいのかを、書くべき言葉を持たないことを悩む安吾。何かをしたいと思いながらも、何をするべきかはわからない。青春期のこういった熱狂にも似た感情は、死の影に脅かされることで沸き起こるものなのかもしれない。


自身を「落伍者に憧れている」(p54)とみなしながらも、カフェやサーカスに働き口を探し、職を得ようとする安吾。矛盾、自家撞着に襲われながらも「有名になりたい」(p53)という野心までが湧いてくる。
彼はコントロールできないそういった衝動的な激情を、「青春の暗さ」(p59)なのだと評する。

「青春の動揺は、理論よりも、むしろ実際の勇気についてではないかと私は思う。私には勇気がなかった。自信がなかった。前途に暗闇のみが見えていた。」(p63)

安吾は25歳の青春を、芥川龍之介の邸宅で過ごす。そこには叩く暇もない石橋を怯えて渡っていくような、「暗い青春」があった。

「私は思いだす。あの家を。いつも陽当たりの良い、そして、暗い家。戦争はあの家も小気味よく灰にしてしまったそうだが、私の暗い家は灰にならない。その家に私の青春が閉じ込められている。暗さ以外に何もない青春が。思い出しても暗くなるばかりだ。」(p66)

Pocket
LINEで送る

コメント

タイトルとURLをコピーしました