「ブルーピリオド展」に行き、アートと才能と努力について考える。

雑談

天王洲アイルでやっている「ブルーピリオド展 アートって才能か?」に行ってきた。

この展覧会は、美術の世界にのめり込む高校生を描いた激アツ漫画、『ブルーピリオド』の展示会である。

作中でアートを扱っているだけあり、普通の漫画とは違った展示の仕方が面白い。

会場となっている寺田倉庫G1ビルは天井が高く、観覧者は広々とした空間の中で『ブルーピリオド』の展示に圧倒されることができる。

登場人物、セカイ君の自画像
主人公、矢口が芸術に熱を注ぐきっかけとなるシーンを描いた展示

展示を見て回っている間、この展覧会の副題である「アートって、才能か?」という質問について、ひたすら考えていた。

実際のところ、どうなんだろう。僕はアートのことは全くわからない。『ブルーピリオド』の登場人物、あるいはこの展示会に関わる人々のように、絵が上手いわけでもない。

F100号という巨大なキャンパスに描かれた「縁」の絵。作中で登場した絵が展示として出てきて嬉しい。

そんな僕は、「アートは才能か」という質問にどのように答えたらいいのか。

「才能」を対義語の「努力」から考える

才能の対義語は、努力だ。「アートは才能か?」という問いには、「アートは努力か?」という問いの裏返しでもある。

「アートは才能か、あるいは努力なのか」これについて、この記事では答えを考えたい。

『ブルーピリオド』の漫画の中では、芸術をめぐる議論の中に、「努力」と「才能」という言葉が結構出てくる。

おそらく、『ブルーピリオド』の作者である山口つばさも、意識してこの2者を合わせて登場させているのだろう。

とりあえず、『ブルーピリオド』内で「努力」と「才能」が登場するシーンをまとめてみる。

そこから、「アートは才能か?あるいは努力か?」という問いに答えるための糸口を見つけていきたい。

漫画のコマをガラスに投射したインスタレーションアート、オシャレ

一巻、「努力」≠「才能」

最初に「努力」と「才能」が『ブルーピリオド』の中に登場するのは、第1。

才能なんかないよ 絵のことを考えている時間が他の人より多いだけ

ブルーピリオド第一巻

主人公、矢口が尊敬する森先輩が語るのが、この言葉である。

「絵にかける時間」はそのまま、絵に対する「努力」と言い換えてもいいだろう。

ここでは明らかに「才能」と「努力」が区別されている。

森先輩にとっては、絵にかける時間こそが自身の絵の根拠となっている。そこには「才能」のなさを「努力」で補うという主張が見て取れる。

第5巻、「努力」≠「才能」

第5巻でも、「努力」≠「才能」の図式は引き継がれている。

努力っつーと聞こえはいいけどやってないと怖いだけなんだよマジで センスも才能もないからやってないことはできないし

ブルーピリオド第五巻

主人公の矢口は、森先輩に言われた言葉に影響を受け、「努力」≠「才能」という図式を継承する。

そこにはやはり「才能」のなさを「努力」で補うという主張が見て取れる。

第9巻、「努力」=「才能」

努力できるのは才能なんだから

第九巻

矢口が同期の世田介君に話すシーン。ここでは先ほどまでの図式とは異なり、「努力」=「才能」だという主張が表れている。

作中で、世田介君は「天才」として描かれる。その世田介君は「努力」を「才能」というのだ。

第9巻、「努力」と「才能」の関係性についての二つの解釈

「努力は努力」派は努力にかけた’コスト’の話をしてて

「努力できるのは才能」はその人の’性質’の話をしているんだよ

第九巻

このシーンにおいて、作者の山口つばさは、作中に出てきた「努力」と「才能」の関係性について整理する。

「努力」と「才能」の関係性についての考え方は二つある。

①「努力は努力」派

第1巻、第5巻で登場した「努力」≠「才能」の図式がこれに対応する。

この派閥の人間は、「努力」=「コスト(お金、時間)」をかけることに自身のアートの根拠を見出す。

②「努力できるのは才能」派

第9巻で提示された「努力」=「才能」の図式がこれに対応する。

この派閥は、「努力」をアートに対してコスト(お金と時間)を費やすこと(行為)ではなく、コストを費やすことのできる「性質」として捉える考え方だ。

これは例えば、オタクを例に挙げるとわかりやすい。

オタクは、ハマっている対象について膨大な知識を収集し、常に最新の情報をチェックしている。

日本史オタクなら、史実を丹念に勉強し、実際に名所を観光する。

そんな日本史オタクは、他の人から見たら日本史について「努力できる特性」=「才能」を備えていると言えなくはないだろうか。

もっと簡単に言えば、②の立場では日本史を「好きになれること」、それ自体が「才能」になる。

いくら好きになろうとしても、日本史を好きになれない人がいるのだから、日本史を好きなオタクは日本史に対する「才能」を持っていると考えることができる。

このように、「努力」と「才能」が同質のものとして見做されるかどうかは、「努力」と「才能」の考え方によって分かれているのだ。

まとめてみる。

「努力」と「才能」のつながりについて、どのように考えるかということは、その人がアートの技量の根拠をどこに置いているかで異なってくる。

アートの技量の根拠を「今まで費やしたコスト」=「努力という行為」に置いている人は①「努力」≠「才能」の立場をとる。

一方で、努力することのできる「性質」を根拠とする人は②「努力」=「才能」という立場をとる。

だから「アートは努力か?才能か?」という質問に対する答えは、回答者が「努力」と「才能」をつなげて考えているかどうかで異なってくるのだと思う。

そしてその回答は、僕が思うにどちらも正解である。

「アートは才能でもあり、努力でもある」これが僕の、暫定的な答えである。

これ、アートの部分に何を代入しても成立するかもしれませんね。

作者の山口つばさが高二の時に書いた漫画、うますぎる
楽しかったです
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コメント

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