爆発した芸術には、岡本太郎はもういない。「岡本太郎記念館」レポート

僕と岡本太郎

僕が岡本太郎にはじめて触れたのは、高校一年生のころだった。

それは、岡本太郎の本である『自分の中に毒を持て』を読んだ時である。

僕は、『自分の中に毒を持て』の言葉の一つ一つに、大きな衝撃を受けた。それは例えば、以下のような言葉たちだ。

「夢を見ることは青春の特権だ」(p26)

「ぼくは、昔から三日坊主でかまわない、その瞬間にすべてを賭けろ、という主義なんだ」(p57)

「社会に入れられず、不幸な目にあったとしても、それは自分が純粋に生きているから、不幸なんだ。」(p118)

「日常の小賢しい自分のままで、ぬくぬくと坐ったまま、つかめるはずがない。感動するということは背伸びを強要されるということだ。」(p206)

当時ひねくれた高校一年生であった僕は、これらの言葉に打ちのめされた。

確信を持って語られる、岡本太郎の激アツな言葉に、僕は心を持っていかれたのだ。

その時から、僕は岡本太郎という人間のファンだ。

大学に入ってからは『岡本太郎の眼』という本を読んだ。

正直、書いてあることは『自分の中に毒を持て』大体同じなのだが、それでも岡本太郎の思想に触れるのは、僕にとって楽しいことなのだ。

岡本太郎美術館へ行こう

そんな風に僕は岡本太郎ファンなので、この度、帰省を利用して青山にある「岡本太郎記念館」に行ってきた。

入場料650円(高くね?)を払い、中へ入る。すると、コンパクトにまとまった展示室が目の前に現れてくる。

岡本太郎のアトリエや、野外の展示もあって「箱庭」感のある博物館である。

僕が行った時、企画展としてやっていたのは「赤と黒」。岡本太郎の絵によく現れる2つの色をテーマに、その作品を挙げていくというものだ。

赤のコーナー
黒のコーナー

赤と黒。それぞれの色ごとに分けられた展示はそれぞれの特徴が出ていて面白い。

岡本太郎がフランス留学時代最初に読んだ本は、それこそスタンダールの『赤と黒』であるらしい。

彼が、赤色と黒色にかける思いというのは、きっと特別なものがあるのだろう。

そう考えると、面白い。面白いのだが…

あれ?僕岡本太郎の作品別に好きじゃなくね?

正直にいうと、僕は、岡本太郎記念館に展示されている彼の作品を見ても、あまり心を動かされなかった。

なぜだ…僕は岡本太郎のファンのはず…。そう自分に言い聞かせたが、あまり効果はなかった。

僕にとって岡本太郎の作品は、ただ鑑賞するものであり、感動するものではなかった。

僕は、本から岡本太郎の思想を知り、それを大変面白いものとして楽しんだ。

しかし、だからといって作品を面白いとは思わない。この断絶は、一体なぜ起こるのか?

野外の展示

作品を作者によって読解するということ

結論から言えば、岡本太郎の思想は楽しめるが作品は楽しめないということの原因は、岡本太郎の作品が「作者によって読解することができない」からなんじゃないかなと思う。

「作者によって読解する」とはどういうことか。

僕たちは、作品を見る時、ある側面ではその作品を作者の人柄の表出として見ている節がある。

例えば、宮崎駿監督の作品には、少女のパンチラが執拗なまでに出てくる。

それはファンの間では宮崎駿がロリコンだからという理由で説明される。

その時、宮崎駿作品は宮崎駿という作者の人柄(ロリコン)によって読解されているといえる。

また、これはバイト先の太宰治オタクから聞いた話なのだが、太宰治作品の中には「いやこれ明らかに太宰本人だろ…」というキャラが現れるらしい。『人間失格』や『ヴィヨンの妻』といった作品に。

やはり、そこには太宰治(作者)によって作品を読み解き、作品を楽しもうとする意識がある。

でも、岡本太郎の作品を見ても、それを作者によって読解することはできない。

「岡本太郎の思想」は確かにある。しかし前提としてそういった岡本太郎の知識を持っていても、いざ岡本太郎の作品の前に立つと、そうした作者による読解ははねつけられる。

だから、岡本太郎の思想から岡本太郎に興味を持った僕は、岡本太郎の作品をあまり好きになれない。

岡本太郎の作品は、作品と岡本太郎という人物がはっきりと切断されている。それは岡本太郎の作品が、作者の思想性の表出というよりも、岡本太郎の思想性で括ることのできない、混沌とした生命の表出であるからなのではないか…

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