「別れの予感」を振り切るために、二人はウィーンの街に足を向ける。『ビフォアサンライズ』

「ボーイミーツガール」というジャンルがある。二人の若者がある季節に出会い、お互いを愛し合い、そして別れていくという展開を見せるこのジャンルは一定の人気を持っており多くの作品が今まで制作されてきた。

ボーイミーツガールというジャンルが現在まで後半に愛され続けている理由については、人によって様々な意見が挙がると思う。仮に、僕がその理由を答えるとするならば、『作中で登場する人間関係の中に、常に「別れの予感」が漂っているから』なのだと答えたい。

「ボーイミーツガール」と称される多くの(しかしもちろん全てではない)物語には、作中で出会った二人の恋愛関係が続く期間に、ある程度のリミットが設けられることが多い。それはたとえば500日(『(500)日のサマー』)であったり、夏の間(『イリヤの空、UFOの夏』)であったりと振れ幅があるが、それでも「二人の男女の関係性の終わり」、「別れの予感」が作中を通じて緩やかに漂っていることに違いはない。

人が出会う以上、必ず別れは訪れる。しかし、現実で生きている僕たちにとって、その「別れの予感」を常に意識し続けることはできない。「この人とはいつか別れるかもしれない」という感覚を「常に」持って人と付き合っている人はなかなかいないと思うし、仮にいたとしてもその感覚を維持するには相当な努力が必要になってくるだろう。

ある程度の長さを持った期間(卑近な例を挙げるなら、大学の在学期間)継続するであろう人間関係の中では、無批判的に「この関係性は今日と同じように続くだろう」という体感を持っていた方が気が楽だし、「別れの予感」を常に意識し続けることは逆にその人間関係の「今の」強度を奪ってしまうだろう。あるいは、「別れの予感」から目をそらすこと方が幸せな時も人間関係の中にはあるだろう。

だから、「別れの予感」を常に意識し続けることは難しいのだ。

ボーイミーツガールという物語ジャンルは「別れの予感」を記述するのに最も適したジャンルだと思う。

「いつかこの関係性も終わってしまうのだろう」というあいまな、しかし僕たちが人と出会う際に確かに感じている体感を、ボーイミーツガールは作中の中で高密度に展開している。「500日」であれ「夏の間」であれ、別れるまでの期間がゆるやかに提示されることで、物語を読み込む僕たちにとって、作中の人間関係は強度を持った「別れの予感」を常に漂わせる。

そうした物語を摂取することで、僕たちは現実を生きている中では常に意識することの難しい

「別れの予感」を思い出し、現実の人間関係に対する気持ちを変えていくのではないのだろうか。

映画『ビフォアサンライズ』は、その「別れの予感」を極限まで観客に意識させるボーイミーツガール映画だ。

パリを目指す長距離列車の中で出会うアメリカ人の男とフランス人の女。男は長いヨーロッパ旅行から帰国するため、空港に向かう最中であった。車内で会話を重ね意気投合した二人は、男の飛行機が飛び立つ予定のウィーンで下車をする。

二人が過ごせるのは明日の明け方まで。(Before sunrise)そんなタイムリミットを持った二人は、男がアメリカに帰国する翌朝まで、ウィーンの街を歩きながら一晩中話すこととなる。

彼らは自身の価値観、世界観、以前の恋人の話を、歩きながら展開させていく。「歩くこと」によって身体を拘束しながら、二人は話すことを選択したのだ。「別れの予感」を意識しながら、それを振り払うかのように、二人はゆっくりと足を進めていく。

終盤、男はこのようなセリフを発する。

「すべてには終わりがある。でもだからこそ時間や特別な瞬間がとても大切なものだと思わないかい?」

別れが差し迫っていくにつれて、二人の気持ちがどんどんと膨らんでいく様子を、この映画は如実に描いている。どんどんと迫っていく「別れの予感」。僕はそれを、切ないと同時に尊いものとして、この映画から受け取った。

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