MV製作者としての新海誠「秒速5センチメートル」

映画

新海誠作品の大きな魅力に、「作品中で流れる音楽と映像のシンクロ」というものが挙げられます。特に、映画内に挿入される「歌」と「映像」の調和は、見ている僕たちの気持ちを掻き立てる素晴らしい表現となっています。

例えば、『君の名は。』では、瀧と三葉が入れ替わるシーンのバックに流れる「前々前世」糸守の空を流れる彗星と共に歌われる「スパークル」、『天気の子』で帆高が山手線の線路を走る時に流れる「愛にできる事はまだあるかい」など、新海作品には挿入歌と映像を同期させる表現がたびたび登場します。

新海作品を評する文章の中には、新海誠の作品自体を「一つの壮大なMV(ミュージックビデオ)」とみなす意見も存在します。

今回の記事は、そういった新海作品にみられる特徴、「映像と挿入歌のシンクロ」を、「MV(ミュージックビデオ)的な表現」とひとまずくくり、その映像表現がどのように生まれるかという問いに解答していこうと思います。

そして、新海誠の「MV的な表現」を考える上で重要な作品として取り上げたいのが、『秒速5センチメートル』という作品です。

『秒速5センチメートル』

『秒速5センチメートル』は2007年に公開された作品です。『ほしのこえ』『雲の向こう、約束の場所』に続く、新海誠3作目の劇場公開作品であり、「桜花抄」「コスモナウト」「秒速5センチメートル」と、3つの短編を積み重ねるかたちで構成されています。

この作品は62分という短い分量ながら、新海作品の中でも高い評価を得ています。実際、この作品は現在の新海誠のスタイルを決定づけた作品ともいえます。美麗な景色、主人公の内省的なモノローグ、田舎と都会、運命的な恋愛….以降の新海作品には欠かせないこれらの要素は『秒速5センチメートル』において一つの完成を迎えます。

新海ファンの中には、『君の名は。』や『天気の子』を抑えて、『秒速5センチメートル』を一番の傑作だと言う人もいます。

また、この作品はファンだけでなく、新海誠自身にとっても思い入れの強い作品となっています。新海はこのように語っています。

「僕は今でも『自分の絵ってどんな絵だろう?』と考えたときに、秒速5センチメートルの絵だと思うんですよね。こういう色だと思うんですよ。自分は『世界をこうゆうふうに見たい』という理想のようなものが、この作品には色濃く入っている」

『新海誠の世界』p123

「MV的な表現」の真骨頂、「One more time,One more chance」

2007年の作品ながら、ファンからも、監督からも愛され続ける『秒速5センチメートル』。その魅力を大いに支えるのが、本作の第三話で流される「One more time,One more chance」のシーンです。

第三話目である「秒速5センチメートル」は約15分ほどの短い話なのですが、なんとおよそ半分の7分が山崎まさよしの楽曲「One more time,One more chance」の「MV的な表現」に占められています。

主人公の貴樹が、ヒロインのアカリを思って過去の記憶や街の風景を振り返っていくカットが、音楽と調和して子気味よく提示されていきます。『秒速5センチメートル』の作品を象徴するかのような、感動的なクライマックスシーンです。

このシーンは『秒速5センチメートル』の中でもかなり人気の高いシーンとなっています。『秒速5センチメートル』の内容は好きになれないけれど、「One more time,One more chance」が流れるシーンは好きという人もいます。

このシーンが人気なのは、「One more time,One more chance」と共に描き出される風景が、僕たちの人生に直接訴えかける普遍性を持っているからでしょう。

アニメーション研究家の土井伸彰はこのように述べています。

映像は細かくエモーショナルに編集され、「君」のいない東京の街のいくつもの美しい姿を見せていきます。(中略)さらには、映像と音楽の融合が、あたかも自分自身をこの世界という物語の重要人物であるかのように錯覚させてくれる・・・・・・。

『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』p141

人間ならば、誰しもが記憶の中に風景を持っています。小学生のころ、高校生の頃、大人の頃、時期を問わず、僕たちの記憶にはおぼろげながらも風景が刻まれていきます。

それはどこかの自動販売機であったり、浜辺だったり、バス停だったり、あるいは「One more time,One more chance」の言うような「向かいのホーム」や「旅先の店」だったりします。

新海はそういった記憶の中の風景を編集し、重ね合わせていきます。センチメンタルな音楽に合わせて、現実以上に美しく彩られた風景が僕たちの眼前に出現します。そしてそのことは、その風景の中で確かに生きていた僕たちの生を肯定することに繋がります。

「One more time,One more chance」の「MV的な表現」から感じる、切なくも温かい印象は、僕たちが普遍的に持つ記憶の中の風景が、カットの切り替わりによって積み重なっていくことで生まれるのです。

(私が『秒速5センチメートル』で一番好きなシーンは、「One more time,One more chance」の流れるシーンの中にあります。そのシーンとは、山崎まさよしが「こんなところにいるはずもないのに」という歌詞を口ずさむと同時に、1秒未満のカットが高速で切り替わっていくシーンです。(57m6s)

「いるはずもないのに」の歌詞一文字一文字に風景のカットが対応しており、僅か5秒にも満たない間に9個の風景が流れるように映っていきます。

鉄塔のある陽が沈んだ後の景色→イチョウが落ちるアスファルト→ホームで電車を待つ女性→誰もいないホームのベンチ→公衆電話で誰かと話す女性→アパートの郵便受け→駅から歩道へ下るための手すり付きの階段→車道から見た川を渡す橋の遠景→シャッター商店街のベンチで誰かを待つ女性….

誰しもが記憶の中に持っていそうな風景のカットを、劇的な音楽に合わせて紡いでいく….僕が新海の「MV的な表現」に感じる気持ちよさのすべてが、この部分に凝縮されています。)

MV的な演出が生まれた要因

ここまで、新海誠の「MV的な表現」について、『秒速5センチメートル』の「One more time,One more chance」を例に取り上げてきました。『ほしのこえ』のラストシーンや『天気の子』の「祝祭」が流れるシーンなど、「MV的な表現」が現れる具体的なシーンについて他にも語りたいことはあるのですが、ここからは新海の「MV的な表現」が「なぜ」生まれたのかというところについて語っていきたいと思います。

新海誠の「MV的な表現」はなぜ生まれたのか。僕がその質問に対して用意することのできる回答は2つあります。

第一に「新海誠がもともとMVを作るのに慣れている」ということ。

第二に「作品を制作するリソースが限られた状況で、MVという表現が選択されざるを得なかった」ということ。

一つずつ解説していきます。

まず第一に「新海誠がもともとMVを作るのに慣れている」ということから。

新海誠は映像作家になる以前、2001年から5年間ほど、PCゲームを制作する会社、日本ファルコムで働いていました。彼はそこでゲームのオープニングムービー制作に携わっており、そのことが彼の「MV的な表現」を生み出すきっかけとなっています。

ゲームのオープニングムービーにおいては、主題歌とゲーム内の世界観、ゲームのキャラクターを調和させ、プレイヤーをゲームの世界に没入させることが要求されます。新海はこの時から美麗な映像を音楽ときれいにシンクロさせるその才能によって、素晴らしいオープニングを作ることに成功しています。

例えば、「ef-the first tale.」というアダルトゲームのOP。

思わず「嘘みたいだろ…18禁ゲームのOPなんだぜ…これで…」と言いたくなるほどのハイクオリティ。光源を直接写し取ったかのように光り輝く世界の中で、キャラクターを移すカメラがグリグリ動いていきます。

「音楽に合わせてカットを切り替えていき、短い時間の中で人を引き込む」というゲームのオープニングムービー制作で培われたテクニックが、新海誠の映画内には持ち越されています。

ここまで、新海誠の「MV的な表現」が生まれた第一の理由、「新海誠がもともとMVを作るのに慣れている」ということでした。

次に、「作品を制作するリソースが限られた状況で、MVという表現が選択されざるを得なかった」という二つ目の理由を説明します。

ゲーム会社を辞め、映像作家として独立した新海誠。

『彼女と彼女の猫』『ほしのこえ』などの初期作品を制作していくにあたって彼を悩ませたのは、「限られたリソースをどこに使うか」ということでした。ほとんど個人で映像を制作していた新海誠には、アニメスタジオを使って大々的に行われるアニメ制作とは違い、時間も労力も限られていました。

「限られたリソースをどこに使うか」。彼の解答は「映像と音楽のシンクロ」でした。

『遠い世界』『囲まれた世界』『彼女と彼女の猫』『ほしのこえ』といった彼の初期作品群の特徴として、「動かないキャラクター」というのが挙げられます。新海誠の初期作品に出てくるキャラクターたちは、ほとんど動くことがありません。

「アニメーションのようなものを作っているけども、動きが不在。これはまさに、新海誠のアニメーションの特徴なのではないか。」(『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』p68)

新海誠の初期作品群の内容のほとんどは、キャラクターたちの住む世界の風景が、ジムノペディやクリエイター・天門の音楽に合わせてスライドショーのように提示されていくことに占められます。キャラクターを動かしてストーリーを駆動させることよりも、映像と音楽をシンクロさせて世界観を表現していく、まさに「MV的な表現」がここでは志向されています。

彼はアニメ制作において自身の限られたリソースを「キャラクターを動かすこと」にではなく「映像と音楽をシンクロさせること」に費やしました。キャラクターを動かさなくても、多くの人が見てくれるアニメを作るために、彼は自身の作品を半ばMV的なものに仕立て上げたのです。

以上、第二の理由、「作品を制作するリソースが限られた状況で、MVという表現が選択されざるを得なかったから」でした。

ここまで、新海誠作品における「MV的な表現」が如何に生まれたかということを見てきました。新海誠がゲーム会社でOPを作っていたという彼のキャリア的な理由、個人の限られたリソースを使うのにMV的な表現が選択されたという制作上の理由の二つを、とりあえずここで僕は指摘します。

『秒速5センチメートル』以降の「MV的な表現」

新海の映像制作が始まるのと同時に生み出され、洗練されていった「MV的な表現」。それは2007年の『秒速5センチメートル』において一つの完成を見ます。この項では、『秒速5センチメートル』以降の「MV的な表現」をサラッと見ていきたいと思います。

僕が考えるに、『秒速5センチメートル』以降、「MV的な表現」は、もはや新海誠の持つ特技…というよりも「性癖」のようなものになっていきました。

彼は、『君の名は。』制作時のインタビューの中でこのようなことを述べています。

新海「RADWINPSの楽曲が四曲ありますけども、僕はもう本当に彼らに惚れ込んでいるんですが、その四曲がかかるところがそれぞれ映画のピークになっていると思います。オープニングがあり、「私たち入れ替わってる!?」のあとのバタバタ、出会いのシーン、エピローグ・・・・・と、RADWINPSの音楽がかかる瞬間のためにシーンを積み上げていくようなところも多分にあります。」(ユリイカp52)

新海はここにおいて、RADWINPSの楽曲と同期して映像が流れるシーンのために、その他のシーンを繋いでいると言ってしまう。これはもはや、RADWINPSの楽曲を使った「MV的な表現」を作るために『君の名は。』が作られたと言い換えてもよいのではないでしょうか。

「MV的な表現」に対する彼の偏愛は、RADWINPSのボーカル、野田洋次郎すら驚かせています。

「画を動かすよりも先に曲があったので、曲に合わせて画を作るという、一般的なかたちとは逆の演出もされていて。監督は『ここの歌詞を聴かせたいので二〇秒延ばします』とか言うんですけど、二〇秒延ばしたら絵が何枚増えるんですか?っていう。一年半かけて、途中でどんどん変えながら作っていくのはすごくおもしろかったです。」

「ユリイカ2016年9月号 特集=新海誠」p84

映像と音楽を同期させること、「MV的な表現」を作り出すために新海は血道を上げています。音楽と映像のタイミングを合わせるために、制作の流れすらも変えてしまう新海誠。巨大なスタジオとスポンサーを手に入れた今、誰も新海の性癖を止めることはできないでしょう。

新海の映像と音楽のシンクロ(「MV的な表現」)にこだわる姿勢について、このような言及もあります。

「『サイダーのように言葉が沸き上がる』(二〇二一年)などの作品で知られるアニメーション監督のイシグロキョウヘイは、とあるトークイベントにて、新海誠の映像・音楽のシンクロの技術について、「あそこまでべたにやるのは照れてしまう」(勇気がいる ※ママ)と語っていましたが、それが意味するところは、そういったことをあえてしっかりとやってしまえるのが新海誠の強いところである、ということです。」

『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』p137

「MV的な表現」。新海誠の映像作家としてのキャリアが始まると同時に生まれたこの表現は、見るものを引き付けていくうちにいつしか彼自身にとっては「性癖」となり、彼の作品の「強み」となっていったのだと思います。

(私が個人的に好きな「MV的な表現」

『君の名は。』

2m22s 『夢灯籠』のイントロの4小節に合わせてだんだん大人になっていく瀧くん。『NARUTO』の「シルエット」みたいでカッコいい

『天気の子』

「風たちの歌」17m32sリズムに合わせて揺れるワイパー、小節ごとに切り替わる東京の景色のカット

「祝祭」37m37sスクランブル交差点の中心で陽菜が晴れ間を連れてくるシーンに呼応するかのように、コーラスが広がっていく。陽の光が指す分だけコーラスも増えていく。

「グランドエスケープ」1h33m45s帆高が雲を突き抜けた瞬間に始まるイントロ 1h36m17s帆高が「天気なんて狂ったままでいいんだ!」と叫んで陽菜と手をつないだタイミングに合わせて流れる大サビ)

まとめ

以上、新海誠の「MV的な表現」について、その成り立ちや新海作品における立ち位置について紹介してきました。

『秒速5センチメートル』における「One more time,One more chance」で一度完成を迎えた「MV的な表現」は、新海作品を成り立たせる重要な要素として、今後もカウントされていくことでしょう。

おまけ 『秒速5センチメートル』の感想

『秒速5センチメートル』は僕が初めて見た新海作品だった。当時、中二病に罹患していた僕は主人公の貴樹くんの達観した振る舞いにカッコよさを感じていた。

しかし、大学生になった今、僕は貴樹くんにまったく共感できなくなってしまった。具体的にどこが…と言われたら迷わず第二話『コスモナウト』における、ヒロインに対する振る舞いだと答えられる。

第二話『コスモナウト』の貴樹くんはひどい。はっきりしなさすぎる。クラスメイトから好意を寄せられているのを自覚しながらも、自分の気持ちははっきりさせない。そのくせ「一緒に帰る?」とか「嬉しい」だとかヒロインに脈ありを疑わせる言動をとって、5年間もの間キープの状態を保ち続けているのが本当に見ててきつかった。貴樹くんが気持ちをはっきりさせるか、一度彼女を振ってしまえば、ヒロインは新しい恋への可能性へ開かれていただろうに。自分は傷つかず、安全に好意を受け取り続けている貴樹くんはずるいなあと感じた。もっともこれは女の子にモテまくる貴樹くんに対するひがみなのかもしれないが…。

そんなわけで、第二話を終えた時点で全く作品に入り込めていなかったのだが、それでも第三話で「One more time,One more chance」が流れると感動してしまった。このシーンがあるから、結局僕は『秒速5センチメートル』が好きなのだろうと思った。

Pocket
LINEで送る

コメント

タイトルとURLをコピーしました