映画館で映画を見ることはどのような意義を持つか、シアターキノに通って感じたこと

雑談
狸小路

二年の後期の間、「映画館で映画を見る」ということは、一体どのような意味を持つのかということについてダラダラと考えていた。

もはや映画なんか正直家でダラダラとtwitterをいじりながら、配信サービスを使ってみることもできちゃうわけで。

そんな中で「わざわざ人が映画館に通う意義って一体何なんだろう」と、いろいろ無駄に考えていた。

いろいろと悩み、私は気づいたらシアターキノに通うようになっていた。

シアターキノへ映画を見に行くまでの25分

狸小路六丁目、シアターキノ

私は去年の11月から札幌のミニシアター、シアターキノへ通っている。南2条に東西に広がるアーケード街「狸小路」の六丁目にシアターキノはある。

私はシアターキノに映画を見に行くことが好きだ。シアターキノで映画を見ることは、私にとってただ家で映画を見るのとは違った意味を持っている。

シアターキノのある狸小路六丁目は、私の家から歩いておよそ25分ぐらいのところにある。雪の中、映画を見に行くために歩く25分が私はとても好きだ。

私はシアターキノに行くとき、家にスマホを置いていく。シアターキノに映画を見に行くとき、私はバイトや部活などの各種業務・連絡が詰まっている生活、SNSとインターネットに精神を振り回されている生活から切断される。

スマホによって開かれている無限の可能性を一度捨て、歩くこと、ただそれだけを意識してみる。歩いていると、大通りのイルミネーションや降ってくる雪が視界にちらつく。私はそれをただ眺めるだけで、なんとなく心が満たされていくことを感じている。

映画を見た後は、恍惚とした気分の中、また25分をかけて家に帰る。北海道の冬は、普通に過ごす分には寒すぎるきらいがあるが、映画を見た後の熱くなった身体と頭を冷ましながら歩くにはちょうど良い気候である。

カウンターバーへ

シアターキノで映画を見た後、普通はそのまままっすぐ家に帰るのだが、次の日に予定がなければ私は狸小路のカウンターバーへ行く。

ミュージックバー、小料理屋風のバー、ビールのおいしいバー、立ち飲みのバー、ジャンルは問わない。

私はカウンターバーのマスターとお酒を飲みながら話し、場合によってはキノで見た映画の話をする。シアターキノは同じ狸小路の中にあるからなのか、カウンターバーの人たちでシアターキノに通っている人はぽつぽつ存在している。

カウンターバーで飲んでいる時、日によっては、バーのカウンターで一緒になった人とも話す。私はその時間がとても好きだ。本当に好きだ。

バーで出会った人は何よりも、目の前の相手との関係性を強く意識する振る舞いを見せてくる。

バーで話しかけてくる人というのは、基本的に人に興味のある性格をしている。それだからだろうか、僕はカウンターバーで出会った人と話している時、学校やバイト先で人と話している時よりも、人と「会話をしている」気分になる。

私にとって今この会話をするべきなのはこの人でしかありえないし、相手にとっても今、この瞬間話をするべきなのは私でしかない。そういう、一対一の関係性を結べているような気がするのだ。

シアターキノで映画を見、その後カウンターバーで飲むという習慣ができてから、私は気づいた。目の前のその人と本当に会話をしている状態って、振り返ってみればとても少ないのではないかということに。言葉を発しながらも、会話をしていない状況というのはいくらでも転がっている。

例えば、集団でいるときの自慢や愚痴、不特定多数に向けた自意識の垂れ流しをする会話。

こういう会話を聞いた時、私は「リアクションをするのはきっと私じゃなくてもいいんだ」と思ってしまう。

そういった会話は、多分相手のことを知ろうとしてするのではない。そういう会話は周囲の気を引くために行われる会話であり、コミュニケーションの仕方としてはSNS上の「いいね」や「リツイート」を求め、派手なことをつぶやくそれと何ら変わりがない。

あるいは、他人をカテゴライズする発言。

「北大生だから」「若者はもっと行動しろ」「大学生っぽいねえ」「男なんだから」「まだ大学二年生なら遊べるでしょ」「文学部ってことは太宰とか読むの?」

私は10月から12月にかけて、単発や短期のアルバイトを20種類ほど繰り返していた。そのアルバイト先で、私は上のような言葉を投げかけられた。

こういった発言は、人をカテゴライズしている。こういう発言は、同じ属性を持った人ならきっと、誰でも当てはまる言葉を投げかけている。

カテゴリーが広ければ広いほど(主語が大きくなれば大きくなるほど)唯一無二の関係性をつなげる会話からは遠ざかってしまう。「北大ってすごいね」「頭がいいんだね」と言われた時、自分の存在というのは、数万人いる北大生の内のワンオブゼムにしかすぎない、私はそう実感してむなしくなる。

もちろん、アルバイトの職場の人間が、このような相手を類型化するコミュニケーションを取ってきた意図は分からなくもない。

日雇い労働者、末端の人間が常に流動的に入れ替わるような職場では、会った人間の人となりについていちいち考えるよりも、適当に人間をカテゴライズしていた方が楽なのだ。カテゴライズして認識する意識が、他者をカテゴライズするコミュニケーションへ繋がっていく。

しかし、類型化のコミュニケーションはむなしい。たとえ、それが暇つぶしのためになされるものであっても。

二年の後期、私はアルバイトで繰り返される類型化のコミュニケーションに辟易していた。そんな中受けた英米文学の授業の中で、教授はこのようなことを言っていた。

「人は目につく一般的な特徴を褒められても、あまりうれしくはない」

例えば北大生が北大生であることを褒められてもあまりうれしくはない。それは北大生のそのひとそのものをほめる事にはならないから。

人をほめるときに、わかりやすい指標を使って褒めてもうれしくないのは、そこでカテゴライズが行われているからだ。

(※教授はその後、「その人自身が意識していない細かなクセや仕草」をほめるべきなんじゃないかと続け、さらに作品批評にも同じような観点が必要なのではないかと話していた。久々に、大学で面白い講義を受けたと思った。)

人を類型化する会話が展開されるとき、私はつまらなさを感じてしまう。

私はカウンターバーで飲み、そこで会った人たちと会話をする中で気づいた。自意識を振りまかず、かつ他人をカテゴライズせず、目の前のその人と本当に会話をしている状態って、振り返ってみれば案外少ないのではないかと

同時に、自分が日頃、どれほどそういった良くないコミュニケーションに時間を費やしているのかを振り返り、反省した。

自意識を振りまき、カテゴライズをする会話。

私はそういった会話の仕方から離れて、カウンターバーの人々がやっているような、相手のクセや仕草、価値観に肉薄したコミュニケーションをしたい。その人と私で、一対一の関係性を結べているような実感が私は欲しい。

私が最も嬉しかった瞬間がある。あるビールのおいしいイタリアンバーのカウンターで飲んでいた時、隣に座っていた男性が話しかけてきた。その男性は苫小牧の製紙企業で働いているらしい。僕が自分の名前を明かすと、その男性は自分の名前をかみしめるように何度もつぶやき、名前にはどのような意味があるのかを聞いてきた。

その時、僕は本当に嬉しかった。本当に、嬉しかった。一瞬のことかもしれないが、この人と僕は唯一無二の関係性を結べた気がした。私が話しているのは、他の誰でもない、私個人の名前の意味を知っている(知ろうとしてくれる)相手なのだということが、たまらなくうれしかった。

宗教学者のマルティンブーバーは、人間の実存的な可能性を開くために、その人の存在をかけて対話を行う関係、「我と汝」の関係が必要だと著書の中で述べている。私は、少なくとも男性が自分の名前の意味を聴いてくれた間は、「我と汝」の関係が結べているのだと感じた。

そしてその時、私は気づいた。

相手と本当に会話をするためのコミュニケーションの作法と、それを想起させる映画

私は気づいた。

私がシアターキノでかかっている映画を見て体験する感動の質は、目の前の他者と「本当に会話をしている状態」の時に感じる充足感や、多幸感のそれに極めて近いということに、私は気づいた。

なぜか。

それはシアターキノでかかっている映画が、ちょうどカウンターバーの人々がするようなコミュニケーションの作法、「相手と本当に会話をするためのコミュニケーション」を描いているからだ。

「その人同士でしかありえない、唯一無二の関係性」というのを、シアターキノの映画が描いているからだ。

例えば、友人に理解されずとも妊娠したことを自分の身に引き受け、運命と戦う女性のたくましい姿を丹念に映し出した『あのこと』、黒人の夫と白人の妻との間に生まれた娘が、家族の関係性を何とか調停しようともがく『ファイブデビルズ』、老年になっても夢を持つこと、それを叶えることの素晴らしさを描き出す『ミセスハリス・パリへ行く』、映画と人生の間を、自らの才能と音楽によってつなぎとめる人間の姿が明らかになる『モリコーネ』、などなど。

シアターキノで流されているのは、その人を(あるいはその人と他者との関係を)描き出すことでしか成立しない映画たちだ。その人たちでなければ結ぶことのできない唯一無二の関係性。その人たちの意間でしか成立しないコミュニケーション。

他者との唯一無二の関係、他者との唯一無二のコミュニケーションを描き出すのが、描き出すことができるのが、映画の素晴らしいところなのかもしれないと、私は感じた。

先輩だから、若者だから、文系だから、男だから、そんなカテゴライズなんて関係なくて、まさに「その人だから」の関係性を、映画は描いている。そしてさらに言えば、日常生活の中にも、そういった関係性が存在していることを、あるいはそういった関係性を意図的に作り出していけるということを思い出させてくれるのが映画だ。

他者との唯一無二の関係性、それが「ある」ことをそしてそれはなくても「作り出せる」ということを思い出させてくれるのが映画なんだ。

「自分の持つ関係性の中に、唯一無二の関係性の萌芽が眠っていること」。映画はそれを私に気づかせてくれる。それが、現時点における私にとっての映画の素晴らしさなのではないか。

トータルな体験としての映画館で映画を見る事

私がそういった映画の素晴らしさに気づくことができたのは、私の中にトータルな体験として「シアターキノに映画を見にいくこと」があるからだ。

歩いて映画館に行き、シアターキノで映画を見て、カウンターバーに行って、酩酊した体を冷ましながら家に帰る。そういったトータルな体験が、私の中の「シアターキノに映画を見にいくこと」なのだ。

映画館で映画を見る事

二年の後期の間、自分にとって「映画館で映画を見る」ということは、一体どのような意味を持つのかということについてダラダラと考えていた。

シアターキノに通い、カウンターバー行脚を行った私の、当座の結論は以下のモノである。

私にとって、映画館に映画を見に行くということは、ただ映画を見るだけでは終わらない。映画の内容を深くとらえ、実存を揺るがすような考えをもたらす機会に開かれた、一つの体験として、「映画館に映画を見に行く」というイベントは存在している。

私にとって、映画館で映画を見ることの意義はそういう体験にあるのだと思った。

もちろん、これは僕個人に閉じた話だし、人と一緒に映画を見たり、デートで映画を見に行ったりするのはまた違った意義があるんだと思う。

今の僕は、そういうことを考えるのがとても楽しい。少なくとも、単位のためにとった興味のない授業のレポートを書くことよりかは、そういうことについて考え、言葉を尽くすことが楽しい。

みなさんは、どういう時に映画館に行きますか?映画館で映画を見るとき、何を感じていますか?

余談

去年の11月からシアターキノに通い始めた私の中には、ある野望が生まれた。

「シアターキノでかかっている映画を全部見てやろう」

「狸小路六丁目の居酒屋に全部行ってやろう」

そういうコンプリート欲求が、私の中に生まれた。

そうなってしまうと、もうまじめに授業を受けているわけにもいかない。授業をさぼり、私は足繁くキノに通った。4,5限をさぼった時はカウンターバーに行けるのでとても満足感を感じていた。

そして、気づいたら単位が落ちていた。8単位落とした。普通にやばい。どうしよう…

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