文系大学二年生が今後の進路についての悩みをダラダラと書く自己満記事

雑談

実家に帰省して、好きなものを食べ好きな時間に寝、日がなtwitterとアマゾンプライムを見、飽きたら本を読むという生活をしています。

そんな時ふと、「あれ、僕の将来ってどうなっちゃうんだろう…。」という考えが頭をよぎりました。

というわけで、普段は考えない進路のことについて考えました。完全に自己満です。誰かに見せるでもなく、かといって自分一人に閉じた文章にするわけでもない、よくわかんない文体になっています。ご了承ください。

大学二年生が終わりかけている僕が、現時点で考えている進路は三つあります。

①院進

一つ。院に進んで好きな勉強をする。+モラトリアムを延長する。後者の方が大きい?

大学生活、特に部活が障害でなかなかできない長期の旅行やリゾートアルバイトをするために、そして様々な本と映画を見るために、そしてそれらを論じるために、あるいは別の媒体で表現するために、大学生活の時間を延長する手段として院にすすむ。

大学二年通って気づいたけど、僕には、多分研究の適性がある。アウトプットされるものの質はさておき、複数の文献を乱読し、テーマについて深く考え、文章という形に残す作業を僕は他の人よりも苦痛なく行える。(と思っている。あくまで、周りの人を見てのことだけど。)

しかもたまにそういう作業をするのが好きだと感じることもある。大学一年生の秋、文芸批評雑誌、ユリイカを読んでいたある日、テーマについて深く考えることのできる時間を与えられた自分は、なんて幸せなんだろうと一人で北大のイチョウ並木を歩きながら思ったこともあった。

大学一年生の春休み、地下歩行空間でやっていたタロット占いを受けたことがある。(10分1000円のやつ)その時私は直接「あなたは研究者になりなさい」と言われた。なんでも私には「青い鷹」の相が見えるらしく、私は深く何かを考えることに向いているらしかった。

私はだから、割合そういう(限定すれば人文科学系の)研究の要請する手続きを難なくこなせると思う。しかし、私は思う。それは趣味でやっているから楽しいのであって、実際に一定水準以上のアウトプットを求められる院の研究に私は興味を持ち続けることができるか。出来ないんじゃないか、というのが今の心境だ。

私は人に何かをやれと言われるとすぐにその対象に飽きてしまう。何か役割やノルマ、責任が発生すると途端につまらなくなり、やる気を失ってしまう。自己目的的に何かをやるのに一番の楽しさを感じる。

自己目的的な作業をより高いステージでやりたくなって、何かコミュニティや団体に所属すると、たちどころにその作業はかつてやっていた時の楽しさを減らしていく。その作業を半強制的にやれる環境を選んだのは自分なのに、なぜか途上で飽きてしまう。

(例を挙げれば、部活、ライターのアルバイト、所属学部の選択必修等々)

(しかしそのものごとをやることが嫌いになったわけではないので、惰性で要求されているものごとを私は続ける。コミュニティに属している、他のやる気ある成員に比べて、極めて低い生産高ではあるのだが、細々と私はアウトプットを続けるのだ。)

その図式が多分、大学院に所属したときにも当てはまるんじゃないかなあと思う。ひとたび好きでやっていた学問も、一定のアウトプットを期待されるとやる気を失ってしまうのではないか、僕はそう思う。

さらに、私は興味を持って取り組みたいテーマを一か月単位で変えてしまう。

例えば直近でいえば2022年の10月には宮沢賢治、11月には新海誠、12月にはメルロポンティと、興味の対象がどんどん移ってしまうのだ。これは、一つのことを学部生以上に深堀りしていく院レベルの研究には不向きである。

(なお、その性分によって、現在通年である一つのテーマについて研究をしなければ単位が来ない授業に私は頭を悩ませている。かつての私(2022年6月)が措定した研究テーマに、現在の私は全く興味が持てないのだ。)

そして付け加えるのならば、私は一度アカデミズムの持つ図式的な議論に幻滅している。

アカデミズムが世の中の事象を全て図式で言いくるめていくことに対する違和感は高校生の頃に社会学・心理学の本を読み漁っていた時から感じていた。そして大学生になって文芸評論を本格的に読み始め、自身でゼロ年代に流行した「セカイ系」の文化評論をやってみたことで、図式によってものごとを論じる違和感は決定的になった。

私が高校時代からやりたいと思っていたアカデミズムの世界というのは、ただドイツ観念論的に、世の中の物事に図式を当てはめていくだけなのではないか…。私は一年生の夏休みにそう感じた。そしてそのアカデミズムに対する懐疑は沢木耕太郎の『深夜特急』を読むことで決定的なものとなる。

『深夜特急』で描かれていたユーラシア大陸の姿は、今まで私の見たどの学問の図式にも当てはまらない、美しいものだと感じた。

それと同時に、これらの事象を強引に図式にからめとってしまう、客観性を担保するために説明可能な概念へと事象を引っ張る、強引な抽象化を行うアカデミズムに対してとてつもない幻滅をしてしまった。

個人の考えを棄却し、メルロポンティの言うように上昇飛行的に見た世界を論じることに、私は意味を見出せない。遠近感を持ったパースペクティブ、空間としての世界を、私は記述したい。

この欲望は、現在私の想定している(そして大学の講義の中で展開されている)既知のアカデミズムでは満たせない。

しかし、それは私の視野が狭いだけなのかもしれない….。

院に行くならどこに行こうかというのもあいまいである。理系の友達の残る北海道?それとも都心の大学?それとも京都?

院に行ったとして、その後の就職も不安だ。外の世界を知りたい。博士までは行きたくないなあ…。

(書いている途中に思ったが、仮にモラトリアムを延長するための手段として院進を考えているのなら、別に院進ではなく休学という手もあるんじゃないかと思った。しかし、休学という手段が、その後の進路を狭めてまで選択する価値のあるものか、私にはわからない。いや、そもそもそれすらやってみないと分からないんだろうけど…。)

②東京で出版社に就職

この進路で重要なのは「東京で」「就職」することであり、「出版社」ではない。初めにそこを強調したい。私は東京で就職することで、東京を知りたい。

私は東京出身である。しかし、住まいはどちらかと言えば埼玉に近く、高校生活を送っている間は世間一般のイメージする「東京」を他の地域に暮らす人同様、つかめずにいた。

(後は私が陰キャであり、高校時代の友達との遊びが専らオシャレな都会で騒ぐといったことではなく、埼玉近郊の駅ビル・ラウンドワンで地元の友達と粛々と遊ぶというスタイルを取っていたために、都会の在り方を肌で感じ取ることができなかったというのも影響しているのかもしれない。)

「東京」のイメージの輪郭を掴み始めることができたのは、大学生に入ってからであった。

大学に入り、いくらかのお金と余裕を手に入れた私は、友だちと、あるいは一人で山手線を一つの境界とする「都心」を歩くようになった。そこには他の地域では経験できないような刺激が、モノが、人があふれていた。

街にはとても一度には味わいつくせないような娯楽が、イベントが無数に広がっていて、しかもそれは時によって変化していく。

さらに、都心には街から街へ簡単に移動することのできるアクセスが発達している。次の場所へ、次の場所へと進ませる都心の持つ力。昼過ぎに高田馬場に到着し、そこからお茶の水、秋葉原、上野と移動しながら友達と遊んだ大学一年生の夏の日のことを私は覚えている。

都心にいる時に感じる、常に他の場所へと移動することのできる可能性。それが、私にそこでしか体験できないような浮遊感を連れてくる。

東京にいると、「私のしていることなどこの人たちの中ではちっぽけなことであり、無数に提示されている選択肢のうちの一つにしか過ぎない。私の生はワンオブゼムでしかない。いや、それ以下かもしれない」という気持ちがわいてくる。

しかしそういった感情は私にとって不快ではなく、そこに埋没しないような何かをしようという気持ちを運んでくる。浮遊感を味わいながら、私は東京で(さらに言えば都心で)自身の身体を動かしたいと思った。

まあ、端的に言えば、東京メトロとか中央線とか丸の内線をスマートに乗り継いでいる自分を見てみたいという、ちっぽけな欲望なのかもしれない。都心にいる自分に憧れている。あるいはそれは、都心の大学に通って、都心で大学生活を謳歌している友達に対するコンプレックスなのかもしれない…。

生きているうちに、一度は都心での生活をしてみたい。そのために東京で就職したい。

後は、東京には実家があるのも大きい。東京の実家(とその周辺)には私がスポコンに燃えていた時間、人生に幻滅してアカデミズムに没頭した時間、北大受験で精神をすり減らしていた時間のすべてが詰まっていて、そこで過ごすことは他のどの場所で暮らすより数倍心地よいのだと私は思っている。

東京で就職すること、それが第一ではあるが、そこに代入されるのがなぜ「出版社」なのか。それは端的に、私が本好きであることに起因する。ただそれだけ。全力でマスコミを志望している人に比べて、私の志望動機はミジンコ以下である。どうも、プランクトン後藤で~す….

私がこの進路に対してセルフツッコミをするとしたら、それは以下のとおりである。

まず、「お前は出版社で何をしたいのか」ということ。

知らん。営業なのか、編集なのか、それさえもはっきりしていない。どういう仕事があるのかもおぼろげにしかわからない。出版社の名前も日頃よく触れているものしかしらない。

(試しに知っているところを上げてみる。新潮社、集英社、講談社、光文社、幻冬舎、角川書店、ちくま書店、岩波書店、平凡社、文藝春秋…)

出版社の人間が書いた本を読むことで少しは仕事のイメージがつくのかもしれない、今度読もう。

第二に、「一般企業に就職するというが、お前の仕事に対するモチベーションはどうなのか」ということ。これは答えるのが簡単だ。私はなるべく働きたくない。寝ているだけでお金がはいるならぜひそれで生きていきたい。最低限の仕事をして、私は息を吸っていたい。

少し話がそれるが、私は大学生活を通じて、「私が生きるために最低限必要なもの」とは何かを考えていた。

そして最近、だんだんとその輪郭がつかめてきた。私は、「本や映画を見る時間と、それについて自分の思いを述べる環境(リアルでも、ネットでも)」があれば、少なくとも毎日を楽しく暮らしていけるのではないかと思った。

そこには別に、立身出世したいといった欲望や、(大げさに言えば半沢直樹風に)仕事で成功して自己実現を果たそうといった欲望はない。

なので私が働く理由は、あくまで本や映画を見ながら暮らしていくための資金繰りのためである。『左利きのエレン』のようなモチベーションは、私にはない。

第三に、「出版社で就職するためにお前は何を準備しているのか」ということ。

これは、厳しい。何もやっていないからである。僕は現在ライターのアルバイトをしている。あと去年の夏には自分で同人誌を作った。しかしこれは有利に働くのだろうか?

就活一般に良いとされている資格の取得・英語の勉強もやっていない。周りの人がやっているのを見ると不安になる。しかしモチベーションはわいてこない。その時間で本を読みたくなる。

第二の進路、東京で出版社に就職するであった。うーん、極めてあいまいだ…。

③北海道で公務員

この三つ目の進路は他の進路よりも徹底的に「世間体」を気にしている進路であると自分でも思う。

小学生のなりたい職業の一位はyoutuberらしいが、大学生のなりたい職業の一位は公務員である。安定、ホワイト、安心感を求めている他の大学生と同じようなイメージを、私は公務員に見ている。

公務員の事務に対するモチベーションも、第二の進路同様低い。私は映画と本を見、それについて表現することができさえすればいいのだ。少なくとも、それさえあれば。

北海道を選んだのは、圧倒的に札幌の街が棲みやすいからだ、道庁も今住んでるところから近い。多分、徒歩で通勤できる快適な暮らしが実現する。

この進路を選択するのならば、公務員試験の勉強を早いうちから始めなければならない。

決めるなら、すぐということになるだろう。北大の公務員ガイダンスに出席して、だいたいのスケジュールは頭に入っている。後は、そのスケジュールを実際になぞるかどうかが問題となってくる。結局のところは堂々巡り。

以上、僕の進路についての逡巡を書きなぐってみた。

これらの選択肢を、選択を保留しながら並行してそれぞれに取り組めるのが一番いいのだろう。しかし、今後時間がたつにつれ、切り捨てりる時がくるのだろう。うーむ…。誰かに相談に乗ってほしい…。

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