北大に入って、東京に住んでいた頃とは比じゃないくらいに歩くようになった。
理由はいろいろあるが、特に言えるのが、「北大のキャンパスが、デカすぎる!」(米倉涼子)ということ。
およそ地下鉄の駅三駅分あるバカ長いメインストリートを通らないと講義に出れないので、2kmぐらいは歩くことになる。
もちろん、自転車があればそれを使うのだが、雨が降れば歩かなければならない。冬ならば雪があるので確定で徒歩である。
僕は一年の後期に徒歩通学のめんどくささを知り、二度と後期に一限を取らないことを固く誓った。
ともあれ、歩くことは好きだ。北大のメインストリートを歩いて、悩み事に悶々としている時間が僕は好きだ。
(俳優の中村倫也も歩くことが好きらしい。つまり僕は実質中村倫也())
歩く時、特に散歩をする時、人はものを考える。なぜなら、歩きながらなにかをするのは難しい。すると、自分の意識は内側に向いていく。
数学者の森田真生は、『数学する身体』という本の中でこんなことを言っていた。
「動くことは、考えることに似ている。」
散歩をするということは、考える時間に身体を拘束されるということである。あるいはそれと同時に、考えることそのものなのかもしれない。
ヨルシカの新曲、『ブレーメン』のMVでは、「歩く」人たちの、三者三様の姿が映し出される。
そんなMVに合わせて、『ブレーメン』の歌詞はこのように始まる。
「ねえ考えなくてもいいよ 口先だけじゃ分かり合えないの この音に今は乗ろうよ」
『ブレーメン』
頭で「考えなくてもいいよ」。それより、音に乗って、それぞれの仕方で歩かないか。『ブレーメン』はそんなふうに語りかけてくる。
「精々歌っていようぜ 笑うかいお前もどうだい」
『ブレーメン』
歩く中で、ほぐされていった考え事は、歌となって表出する。ヨルシカは、僕たちに「お前もどうだい」と促す。
これを同じヨルシカの曲、『歩く』と比較してみる。
「君の旅した街を歩く 訳もないのに口を出てく」
『歩く』
このように、『歩く』の歌詞の中でも、足を動かすことで思考が解き放たれ、それが歌になっていくという一連の過程が見られる。
『歩く』が内省的に心情を吐露する「モノローグ」なのに対し、『ブレーメン』はより直接的に、身体を動かして考えることへの「促し」となっている。
『歩く』と『ブレーメン』の相違点はここにある。しかし、それは「歩くこと」に対する切り口の違いであり、どちらが良いという話ではない。
身体を動かすことで、無意識に言葉が、歌となって口から溢れ出る。ヨルシカは、「歩くこと」を「思考をうまく解き放つ方法」として捉えているのだ。
「身体は動く?お前もどうだい」
『ブレーメン』
ヨルシカの『ブレーメン』は、だから促す曲だ。歩くために、考えを解き放つために、ヨルシカの曲を聞こうと思う。
コメント
[…] ヨルシカ『ブレーメン』を聞いて、また歩き出そう。 2019年10月に行われたライブツアー、『月光』のリバイバルツアーとなっています。大阪、愛知、東京と三つの場所で開催されました。ライブでは、ヨルシカの対になるアルバム、「だから僕は音楽をやめた」「エルマ」を再編纂して出来上がった物語が、作曲家n-buna自らによって語られます。 […]