『ケイコ、目を澄ませて』を見ると、街の音がいつもよりも近く聞こえてくる。

雑談

うまくいかない、コミュニケーションがうまくいかない。

なんかそうゆう時期にぶち当たってしまった。言いたいことがあるのに言えなかったり、また言いたいことが言えた時にも会話の流れに即していなかったり、勇気を出してコミュニケーションの機会を開いても間延びしたり途中で切れたり….。

コミュニケーションがうまくいかない。そういう時期はある。けど今回のは期間が長い。12月の第二週からずっと続いている。つらい。自分と他人との距離が遠ざかっている。コンビニの人との会話すら歯切れが悪い。だんだん声がこもってくる。どもりがちになる。つらい。

コミュニケーションがうまくいかないと、他にどんないいことがあってもそれだけで辛くなる。そういう時期は、暇な時間に失敗したコミュニケーションを思い出す。バイトや課題でその時間を埋め尽くしたい。

つらいのでひたすら家でコンテンツを受容する。twitterを巡回し、lineを日に十数回開き、youtubeでレジスタンスの動画を見、apexの実況を見、mrchildrenのライブ映像を見る。『そして映画館はつづく』という本を読み映画館で映画を見ることの意義について考え、『メルロポンティコレクション』を読んでメルロポンティの身体論を理解したつもりになる。メルロポンティ曰く、「真の思考」とは「表現されたこと」らしい、…?

だめだ、家にいてもダメだ。ストーブの熱と部屋の静かさで頭がいかれる。外に出よう、そうだ、シアターキノへ映画を見に行こう。

札幌狸小路商店街六丁目にあるミニシアター、シアターキノで僕は『ケイコ、目を澄ませて』を見た。

この映画の主人公は耳が聞こえない女性プロボクサー、ケイコ。舞台はコロナ禍の東京都荒川区。

ケイコは耳が聞こえないというハンディキャップを背負いながら、毎日ストイックにトレーニングをこなし、ジムに通い、試合をする日々を過ごす。他の選手と違い、ケイコにはトレーニング時の指示も、レフェリーの声も、ゴングの音も聞こえない。それでもプロ初試合においてはKOを収め、華々しいデビューを飾っている。物語は、ケイコがプロとして二回目の試合を迎えるところから始まる。

ケイコは嘘がつけず、愛想笑いが苦手。正直な性格を持った人間だ。僕は映画を見ていくうちに、自身の抱えるハンディキャップについて強烈に意識したり、あるいは距離を取ったりもしない、自然に振る舞うケイコの姿に惹かれていった。

僕がこの映画を見て素晴らしいなと思ったのは、ケイコの生き様を割合「ポジティブなもの」として描き出したことである。

『ケイコ、目を澄ませて』の監督である三宅唱は、ケイコの生き様を「難病もの」の映画にありがちな悲壮感を持ったものとして描きだすこともできただろう。しかし、この映画において、ケイコの障がいを抱えながらボクシングをl続けていく姿は、前向きな性格をもった、鮮やかなものとして描き出されている。

近くにいるだけでふしぎとコミュニケーションを取りたくなるような、魅力にあふれた人物。そのような存在として、ケイコは作品の中で生きている。しかし、作中において、ケイコとコミュニケーションを取れる人間は少ない。ケイコは、他人の発した声を聴くことができないからだ。ケイコはコンビニでポイントカードを持っているかどうか聞かれても答えられないし、背後から近づいてくる自転車の音にも気づかない。

作中において、ケイコの耳が聞こえていないことを知らない人物は、自分の声をさらに張り上げ、叫ぶことによってケイコとコミュニケーションを図ろうとする。しかし、その声は届かない。会話は断絶し、コミュニケーションは閉じていく。

ケイコとコミュニケーションをとる時に、必要とされるのは「沈黙」である。作中でケイコと会話をする人物は、喋れないケイコに合わせて、無言のまま手話や身振りによって会話を行う。声を荒げず、まくしたてることもせず、口を閉ざすこと。沈黙することが、ケイコとのコミュニケーションを開く。

ケイコを取り巻く世界は静寂に満ちている。基本的にケイコは喋らないし、他人との会話は手話で行われるから、映画のおよそ半分ほどの時間は会話も、BGMもない沈黙した状態が続いている。

その沈黙の代わりに、ケイコは「目を澄ませる」。

ケイコは「目」がいいんですよ

ケイコの通うボクシングジムのオーナーのセリフ

ケイコは目、視覚によって世界をつかみ取ろうとする。ケイコは見ている。三宅監督がカメラでつかんだ美しい東京の風景、荒川の河川敷や下町の風景を、ケイコは見ている。音はなくとも、ケイコの前には目で捉えることのできる美しい世界が、確かな奥行きを持って広がっている。

ケイコが目を澄ましている時、観客である僕たちはしかし「耳」を澄ませることになる。ケイコには聞こえない東京の街の音を、僕たちはケイコの体験する世界がもたらす沈黙によって、しっかりと聞き取ることができる。

僕たちはケイコの代わりに耳を澄ませる。そこで聞こえるのは荒川のせせらぎ、車がアスファルトを踏む音、風の音、トレーニングウェアのこすれる音、サンドバックが打たれる音…でも、それだけではない。聞こえるのは映画の中の音だけではない。

『ケイコ、目を澄ませて』という作品が上映されているシアターキノという場所の環境音が、耳を澄ますことによって聞こえてくる。空調や、観客の物音、そして自分が発している吐く息の音が、たしかに聞こえてくる。

そして、僕たちがその「音」に意識を集中させ、もっとその「音」を聴こうと耳を澄ませるたびに、ケイコにはそれらの音が全く聞こえていないことに気づき、ハッとさせられることとなる…。

『ケイコ、目を澄ませて』はその作品自体は静寂を内包しながらも、見た人に無数の「音」を連れてくる映画なのだと僕は感じた。

エンドロールが終わった後、シアターキノの階段を下りながら、「すげえ映画だ…。」という感想がわいてくる。狸小路六丁目に降り立ち、気分がいいので電車を使わず歩いて家に帰ろうと思った矢先、僕はあることに気づいた。周りの音がすごい近くに聞こえてくるのだ。

『ケイコ、目を澄ませて』という極めて静謐な映画を見ることによって、僕の身体には完全に「周囲の音を聞き入る姿勢」が作り出されていた。

遠くの救急車の音、建築音、大通りのイルミネーションのBGM、対向車線の人の靴音、狸小路のテーマソング、会話、排気口、雪を踏む音が、すごい近くに聞こえてくる。もう、逆にうるさいくらいに聞こえてくる。けれど、その感覚はすごい心地良かった。

皆さん、『ケイコ、目を澄ませて』はやばすぎる映画です。上映が終わってしまう前にお早めにシアターキノへ….

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