一つのことに徹底的に集中する人間の姿は、狂気的であると同時に美しい『セッション』

映画

主人公は、ジャズドラマーを目指す男、ニーマン。名門音楽学校に通う彼は、日頃から一人で熱心に練習を重ね、その技量を確かなものにしていた。

そんなニーマンに目を付けたのが、鬼コーチであるフレッチャー先生。フレッチャー先生はニーマンの才能を見抜き、彼に厳しい指導をしていくようになる。

ニーマンが連日の練習で疲弊し、ドラムの叩きすぎで血を出しても、フレッチャーは指揮を止めない。より早く、より強く、ニーマンはドラムをたたくことを強要されるのだ。

ニーマンはフレッチャー先生の期待に応えるため、狂気じみた練習を重ねていくことになる…

この映画の魅力は、何といっても主人公ニーマンがドラムに没入していく過程を映画を通じてみることができるところにある。

ニーマンは、映画が進むにつれて、より深く、より強い感情を持って、ドラムの演奏へのめりこんでいく。

次第に、ニーマンの人生からはドラム以外のモノが消えていく。家族関係が崩れ、恋愛を捨ても、ニーマンはドラムをたたき続ける。

そのニーマンの姿は狂気的な姿であると同時に、美しい。

ニーマンがドラムに没入していくとき、一つの物事に徹底的にコミットメントすることで生まれる、ソリッドな人間像の美しさを僕は感じてしまう。

その生き様には、何となく「生き方」が掃除されていて、必要なモノだけを抱えて生きているような潔癖さ、美しさを感じる。

僕は、部活、サークル、バイト、ブログなどいろいろなことをやっている。それは『セッション』のニーマンのように、一つのことを徹底的にやり続けられる自信がないからだ。

「そもそも経験が少ないんだから、いろいろなことに手を伸ばすしかない。自分に向いていることなんてまだわかっちゃいない。」そう自分には言い聞かせてごまかしているが、本当はニーマンがドラムに打ち込んでいるように、一つのことに没入することに憧れを感じている。

『セッション』の監督のデイミアンチャゼルは、この映画で成功を収めた3年後に、『ラ・ラ・ランド』で映画界に衝撃を与えた。

その『ラ・ラ・ランド』でも、『セッション』のニーマンがそうであったように、アーティスティックな自己実現を満たすために、恋愛を捨てていく人の物語が描かれている。

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