『ぼっちざろっく』にハマった北大生が思ってること垂れ流すだけの記事

雑談

『ぼっちざろっく』、とんでもないアニメでした。まじで面白かった。胸を張って「好きだ」と言える作品を持てるのは幸せなことですが、『ぼっちざろっく』はまさにそんな作品だといえるでしょう。

『ぼっちざろっく』が好きだし、もはや『ぼっちざろっく』好きな人も好きです。ちなみにギターヒーローになるためにギター買いました。(12000円)

今回は 「『ぼっちざろっく』がある生活」 「『忘れてやらない』について」 「高校という「場所」に潜む青春に、僕は泣いた」の三本立てです。『ぼっちざろっく』について、ぼくなりに言葉にできたらと思います。

『ぼっちざろっく』がある生活

天才ハンターのジンフリークス曰く、いいハンターは動物に好かれるらしいですが、僕が思うに、いいアニメというのはMAD制作者に好かれます。

『ぼっちざろっく』が放送されている3カ月の間、本当に様々なMADがyoutube上に投稿されていました。3~4話が公開されたあたりの、かなり早い段階からぽつぽつと投稿され始めていたのを覚えています。その後はアニメの最新話が公開されるたびに、その素材を活かしたMADがどんどんyoutube上に上がっていっていました。

僕はそのMADを部活終わりやバイト前に見るのを日課としていました。2022年の10月~12月、『ぼっちざろっく』は確実に生活の一部になっていました。

もう数年前のことなので記憶もあいまいで、検索しても見つかんなかったのでソースがないのですが、あるバズったツイートでこんなものがありました。

それは「ワンクールアニメが提供するのはアニメ本編12話だけじゃなく、アニメと共にある3カ月だ」というツイート。これ、まさに言いえて妙だなあと僕は思っています。

アニメにハマることで得られるのは、アニメを見ることによる快楽だけでなく、少なくとも三カ月の間は幸福が持続する、一つのライフスタイルなんですね。

だから、アニメ見るのって楽しいんだよねえ。特にリアタイで見ているとなおさら。『ケムリクサ』『ゆるキャン△』『メイドラゴン』などの、リアタイで見たアニメは今も記憶に残っています。

「忘れてやらない」について

ぼっちざろっくの好きな要素はいっぱいあって、まず結束バンド四人のキャラが好きだし、音楽が好きだし、たまに入る実写描写とか、作画崩壊とかもいいし…なかなか語り尽くすことができません。

しかも、僕って好きなコンテンツとの距離が近すぎると逆に言語化できないじゃないですか。(いや知らん)

なので、今回は比較的記憶に新しい、最終話冒頭のライブシーン「忘れてやらない」について述べていきたいと思います。

12話冒頭、いきなり始まるライブシーン。その初手で演奏されるのが『忘れてやらない』という楽曲です。

まず思ったんですけど、喜多ちゃん可愛すぎませんか。演奏の邪魔になるからミュートされているけど、多分バックで常時「キターン」の音が鳴っている。「笑ってやんのさ」という歌詞に合わせてウィンクしている姿には全オタクが沸いたことでしょう。

そんで楽曲がめっちゃいいですね。

文化祭ライブにピッタリな明るい曲調で聞いてて楽しくなるし、相変わらずこじらせたぼっちちゃん(ZAQ)の歌詞はレトリックも効いていて何度も聞き返したくなります。

特に「青い春なんてもんは僕には似合わないんだ それでも知ってるから 一度しかない瞬間は儚さを孕んでいる」という歌詞が好きです。青春コンプレックスを抱いて押し入れにこもっていたぼっちちゃんが、結束バンドの活動を通じてこんな歌詞が書けるようになるまで成長したんだと思うと普通に感動しました。

タイトルが「忘れてやらない」というのも好きなポイントです。忘れられないのではなく、忘れてやらない。忘れられない、では過去の記憶に振り回されている印象を受けますが、それが忘れてやらないだと過去の記憶を貴重なものとして受け止め、維持していきたいという強い意志を感じさせます。

高校生の持つ、瞬間的な強度を持った時間感覚を一つの音楽として昇華している「忘れてやらない」。このライブシーンだけを取り上げるだけでも、『ぼっちざろっく』というアニメの持つポテンシャルが凄まじいことが分かります。とんでもないアニメだ…。

高校という「場所」に潜む青春に、僕は泣いた

この項では『ぼっちざろっく』の舞台が高校でなければならない理由を語ります。

ここで一回自分語りを挟むんですけど僕、高校に通うのマジで嫌いだったんですよ。

まず朝起きるの辛いし、授業はおもろくないし、部活の人間関係しんどいし…。

ほんとにストレスたまるというか。もう一度やれと言われたら金を積んででも回避したい。

大学に入って、(単位を気にしつつも)自由に休めたり、自分の好きな勉強ができるようになったことで、ようやく楽に息が吸えるようになった感じがあります。

でも、僕高校という場所自体は結構好きで、自分が通っていた学校の風景をわりとはっきり思い浮かべることができます。そして、僕が学校という場所を好きな理由は、陳腐な表現になりますがそこに沢山の思い出が詰まっているからです。

「人がある場所を強く記憶するには、その場所で多くのコミュニケーションを交す必要がある」

僕は最近そう考えています。その場所の快適さとか美しさといったものは二の次で、その場所で他者と何度も時間を共有することが、人に強い場所の記憶を植え付けるのだと、僕は考えます。

僕が高校という場所を好きなのは、まさに高校がコミュニケーションの積み重ねがある、強く心に残る場所だからです。しかも、他の場所よりも時間的にも回数的にもコミュニケーションの密度が強い。10代の内に、良い意味でも悪い意味でも、こんなに強い意味を持った場所というのは、高校ぐらいしかないんじゃないかなあと思うんです。

(僕はこれを帰省中に思いつきました。帰省中に、電車の窓から見た景色と、実家のある町の景色は、質的に異なっています。その違いこそ、その場所で他人とコミュニケーションを取っていたかどうかの違いだと僕は考えました。過去になしたコミュニケーションの履歴が、空間の中に漂い、張り付いている。そんな場所に、人は強い思いを抱くんじゃないかなあと思うんです。)

ここで『ぼっちざろっく』の話に戻ります。自分語りが長くてすみません。

前項で触れた「忘れてやらない」のライブシーンでは、結束バンドが演奏する神作画の映像の合間に、ぼっちちゃんと喜多ちゃんの通う高校の風景が挿入される場面がありました。

そこでは屋上、図書館、教室などの学校の風景が、音楽に合わせて写っていきます。その風景の中には、ぼっちちゃんと喜多ちゃんが初めて話した場所である、階段下のスペースもあります。

このシーンの製作者側の意図は、ぼっちちゃんと喜多ちゃんが出会った場所と現在の文化祭ライブを並行して写すことで、二人の関係性と成長を強調することにあったのではないかと思います。

ただの風景のカットにそんな尊い意味を込めようとする製作者の天才性にはゾクッとしますが、僕はそれとは別の部分で感動しました。

それは、先ほど述べた「強いコミュニケーション密度を持った空間としての高校」という視点においてです。高校内の景色は結束バンドの人たち以外にも、より普遍的に、強い意味を持った空間として表れている。

『ぼっちざろっく』は高校生が体験している、高校という濃密な場所を、たった数カットの風景で表現することに成功しているのではないか…?そういう想像をして、僕は脳が震えました。

『ぼっちざろっく』はおそらく舞台を大学にしたら成立しないでしょう。大学よりも選択肢的、空間的に限定され、それによって(だからこそ)強烈な意味を持った高校という場所が、『ぼっちざろっく』の舞台にはふさわしいのだと、僕は考えます。

以上、『ぼっちざろっく』について思っていることを書きました。Cloverworksを始めとした製作者陣、作っていただいて本当にありがとうございます。二期、ゆっくりでいいので気ままに待ってます。

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